犬田卯 随筆集5
夏日抄-牛久沼スケッチより-2
夕月
炎熱にやかれた大空が、夕暮時の追つてゐるにも拘らず何時までも明るく、なかなか夜にもならず、涼しくもならずといつたやうな時刻である。ひよつと東の方を見ると、何時出たともなく、それこそ「音もなく語もなく」大きな月が橙色にくすんで、こんもりした樹上などに、のつそりと出てゐることがある。
暮れなづむ空に比例して、この月もなかなか明るさを増さない。ぼんやりと黙つて、灰をかぶつたやうに、木立や屋根の上にかかつたまゝ、徒らに大きさばかりが大きいのである。
だが、月は決してじつとしてゐるわけではなかつたのだ。のそりのそりと唖のやうに昇つて、やがて光りも増し、大きさもそれほどではなくなるのである。といつても、それまでには小一時間もかゝつてゐるのではあるが。
夕べの風にぱらりと開いた月見草の黄色い花辧が、さうして明るくなつた月の光を思ふ存分吸つて、ますます誇らかに艶を出す。殊に河原や野ツ原に自然に咲いてゐるところへ、徐々に、しつかりとした月が、次第に光りを増して行くのは趣がふかい。
夏の夕日は、また、思ひきつて長く物の影を地に曳かせるのが面白い。ふと、月光の中を歩いてゐる自分の黒い影を見つけて、これが果して自分のであるか、何ものかゞ自分のうしろに立つて接ぎたしをしてゐるのではないかとさへ思はれる程、それは長いのである。然もそれが冬や秋のやうにはつきりしたものでなく、薄くぼかしを被つたものであるだけに、よけい長く大きく思はれるのである。
月の光はたしかに物のかたちを美しく見せる。晝間、日光の下に見るとき、それがどんなに醜いものであつても、度び月光の中にあつては、すつかり變わつてしまつて、そこ一に幽玄さ、非現實さが着色されて來る。私はしばしば我が村の下に展開する牛久沼の対岸を、この月の光の中に見て幼稚であるが、夢の様な…などゝいふ形容をしたものだが、全くそれは生々しい現實から遠く去つて、夢幻界に沈んだものゝやうにしか見えない。言ふまでもなく、そこには村あり、町あり、丘あり、耕地あり―――人生がそのさまざまな悲曲を奏でゝゐるのであるが、さうした個々の現象は何ひとつ姿をあらはさず、たゞ永遠なるもの、無限ななるものへと融け入つてしまひ、目で見えるのは、一條の灰かな虹のやうな弧線のみである。
夜が更けるにつれて、その弧線はますます寂しさを増してゆく。だが、それを夕月に見る時分には、まだまだ一種の賑やかさにみたされてゐる。それは恐らくこの沼をめぐる農家が夕食最中であるとか、或いは麥小麥の始末に忙殺されてゐるとか、遠くへ行つた人が急ぎ足に家路を辿つてゐるとか言つたやうな環境からのみ來たものではあるまいと思はれる。夕べの月光そのものゝ中に、何かしらさうした穏かなもの、親しみある要素のやうなものが交つてゐるのだらう。