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住井すゑ
『向い風』の世界3 

そして、牛久沼
部落の丘を下がると、右手にさっと沼がひらけている。
沼は南西の風に白く波頭を立てている。小船が二艘、追い風を受けてその波頭を辷っていく。


この光景はまさに著者住井すゑの日常の生活の中の風景で、この作品を書いている頃の住井すゑは週の内、何日かを日用品を求めて国道6号線沿いの「油屋」という雑貨店まで足を運んだ。その日常の見たままの光景を作品の中に挿入しているのである。

黙っていた健一は国道に出たとたんに口を切った。家からの距離が一種の開放感となったのだろう。
 健一「ゆみ、よかったな。耕地が手に入って。」
 ゆみ「そう。ほんとに。俺は運がよかったよ。」
 健一「でも、それはゆみが百姓のできる人間だったからさ。だから運じゃなくて、むしろゆみの力だよ。」
 ゆみ「そうかしら」
 ゆみ「俺はうんといい作、でかしてみせるよ。」
 健一「それを聞いて大安心だ。」

そして、一年前にゆみが総てをうち明けた沼畔の同じ場所に立ち止まった。あの時と同じように沼は優しさを包んでいる。
健一は別れを惜しむかのように言う。

 健一「ゆみ、一寸休もうじゃないか。」
 ゆみ「でも休んでいると暗くなるからヨ。」
 健一「暗くなれば家まで送って行くから大丈夫だよ。」
 ゆみ「だけど、どこまで送ってもらっても同じことだもの。」
 健一「・・・・・・」
 ゆみ「それに、とよも、おっ母さんも待ってるだろうから、・・・省略」
 健一「それじゃ、小貝の堤まで送るとしよう。あの橋まで行けば、ゆみの村が見えるからな。

あの橋に向かって・・・・・つまり、物語のラストシーンに向かって二人はまた歩き始める。

ラストシーン、文巻橋(ふみまきばし)
ゆみは文巻橋の袂で立ち止まった。それは何よりも明瞭な別れの合図だった。

健一「ゆみ」
ゆみ「さようなら」
健一「ゆみ」

ゆみは黙って橋を渡りはじめた。
橋上は一入風が強かった。しかも向い風だった。ゆみはその風に突っ込むように、一直線に進んで行く・・・・。
上流は雪解であろうか、小貝川は水豊かに、淙々として薄暮の中を流れていた。

「国道6号線文巻橋、藤代方面を望む」画像を見る
 文巻橋は国道6号線(水戸街道)の橋で、「向い風」の作品の当時から往来が多く、龍ヶ崎市と北相馬郡藤代町の境界線を流れる小貝川に架かっている。この作品の当時は稲敷郡馴柴村と北相馬郡相馬町の境界線で、更に遡ると下総国と常陸国の国境である。
 橋は心の架け橋でもあり、二人の別れは永遠ではなく、この橋が二人の心を結びつけているのかもしれない。しかし、ゆみは向い風に向かって突っ走るしかない。そして過去を棄てきれない健一にとって、小貝川の流れは寒々として非情に映っただろう。
さまざまな思いを映す川の流れ。その川に架かる橋は、いつの場合も哀愁をおびて、効果的に別れのシーンを演出するのである。