野づらは星あかり3
鼻輪(鼻輪)
五月の沼は体内をくすぐって萌え出る葭や真菰に、終日、微笑みつづける。沼にとっては、いのちよみがえる・・・・・の季節なのだ。
沼畔の土を耕す人たちにも、五月はやはり生き甲斐の季節だった。
長閑なはずの沼畔の中原むらの光景は、この日だけは違っていた。
要吉の隣の牛が逃げた。逃げたのではなく盗まれたのかもしれない。一頭の牛を巡って沼畔は朝から騒然としている。
「牛めにしてみりや、人間なんてどいつもこいつもみなちくしょうに見えるにきまってる。牛めは何も人間のために生れて来たわけじゃねえのに、むりやり鼻輪を通されて、それ、車を引っ張れの、田畑を耕えのとこき使われ、揚句の果に、この肉は硬いとか、あんまりうまかねえとか、つまらぬ文句といっしょに食われてしまうだかんなア。だからたまたま夜中に厩栓棒を外して、そのまま車もつけずに連れて行ってくれるのが居たら、″こりやア、ありがてえ。≠ニのどを鳴らしてついて行っても不思議はあんめで。」
「それはもっともだ。牛めにすれば、小舎から連れ出してくれるのは悪党どころか、逆に救いの神にちがいねえ。ちょうど俺たち小作百姓に農地を分配して、代々しばりつけられてきた貧乏という棒から解き放ってくれるマッカーサー元帥みてえにヨ。」と、はしゃぎ声に言った。
「あははゝゝゝ。」
「あははゝゝゝ。」
男たちはおかしそうに、或いはうれしそうに笑った。
戦後の農地改革によって、小百姓たちの農奴の重いくびきから開放してくれたアメリカ。しかし、その正体は日本という牛に鼻輪を通し、有無を言わさず、「労役」に借りたてる主人でしかない
今も昔もアメリカのやる事は、力による主義主張の押し付けであり、弱者はそれに従わなければならないのか・・・・。
口々に"牛は女化のヤマへ隠されている≠ニっ囁きあった。
そこで、牛の捜索は二班に分かれることになった。一班は中原を北に抜けて女化へ、二班は南に廻って柴原から女化へ。
捜索隊の"牛は女化のヤマへ隠されている≠ニいう思い。なぜ女化なのか、このことは小説では特に説明されていないし、また説明の必要性もない。が、住井すゑはエッセイ集等で女化のことをたびたび書いている。若い頃は歩くことが好きだった住井すゑ。彼女は牛久市城中町の自宅から国道6号線方面に向かい、古根屋橋を渡り、国道を横切り、遠山踏切を渡り、旧水戸街道に出て、遠山、成井、永山(若柴)を通過し、女化までの約6kmの道程を、長閑な風景を眺めながら歩いたのだろう。無宗教の住井すゑとしては異例であるが、女化神社の初午に詣でるこは特別楽しみにしていた。この女化迄の道中の過程において、小説の中原むらのイメージが出来上がったのだと思う。物語の中の中原は、現実の地名で言うと遠山町、柴原は若柴町、しかし女化は物語の中も、現実の地名も女化。それだけ女化に対する思いは強かったのだろう。
朝から始まった捜索は午後三時で終了した。それぞれ中原に戻ってくるが、結果は誰も牛を見つけることができなかった。慰労を兼ねて遅い昼食と酒が出され、話題は混ぜ飯の旨さに集中する。この頃は各家庭でそれぞれの味があった。つまり自家製醤油、自家製味噌で作った料理は、独特の香りがあり、特に空腹時にはたまらない美味しさだった。