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鬼平犯科帳、雲竜剣二

この物語と牛久沼の関わり一

 
平蔵は大鴉のような男に襲われて以来、たびたび大鴉の夢をみるようになった。その夜寝床で、高杉銀平の言葉を思い出した。ほとんど自分の過去を語らない高杉であったが、忘れられぬ剣客があったと。「その剣客と、わしは、常陸の牛久沼のほとりで、真剣勝負をしたのじゃ」と言って、その時斬られた傷口を見せた。その勝負は引き分けの終わったのである。そして恐るべき人物の名を明してくれた。「医者のような名前でな、堀本伯道と名乗った。・・・・・あの不思議な刀法については、やや誇らしげに、自分が草案になるところの、雲竜剣じゃと申してな」と、高杉銀平が語っていたことを思い出した。平蔵は高杉銀平の言葉を思い出すうちに、堀本伯道と大鴉の男のイメージが重なってくる。といっても自分をを襲った人物と堀本伯道が同一人物とは思えない。そこで平蔵は剣友の岸井左馬之助を呼んで、総てをうち明けた上で、牛久沼へと旅発たせた。
 この物語の序盤にて、牛久沼が大きくクローズアプされる。事件の真相が不透明ながら、牛久沼には何か謎があると・・・・・。

牛久宿
 その日の午後に、常陸の国(茨城県)牛久の宿場へ入った岸井左馬之助は、上町の本陣の近くにある旅籠[柏屋三.右衛門]方へ旅装を解いた。
 牛久は、江戸から水戸街道を十六里余。山口広致・一万十七石の領地であるが、殿さまは江戸の屋敷に常駐しており、牛久には陣屋を置き、家臣が政務をとっている。山口広致は小さな大名で城郭も構えていないのだから、城下町ということにはならぬ。参勤のつとめもなく、むしろ、このような小さな大名の方が「当節は入費もかからず、気楽なのだ」 (原文より)

 この書き出しにより、牛久藩及び牛久宿の一端が窺える。少し捕捉すると、山口広致は山口重政から数えて八代目で、天明から文政年間にかけて藩主を勤めている。当然の事ながら実在の長谷川平蔵と同じ時代の人である。
 しかし、山口広致が気楽な殿様だったかどうかは分からない。おそらく、他藩と同じく、2年おきの参勤交代は必定であったと考えるのであるが。

  さて、 左馬之助が案内された部屋は二階奥の間で、窓の向こうは一面竹藪であった。閑静な牛久宿の様子が窺える。柏屋は郷土史の記録に残っていないことから、おそらく架空の旅籠でろう。あとの本文と照らし合わせて見ると、その場所は、現在の農協(本陣跡)より、少しだけJR牛久駅寄りの場所と考えられる。

 左馬之助は「牛久沼の景色も見学したいものだな」と番頭に言う。決して観光気分ではない、高杉銀平と堀本伯道の真剣勝負がどんなところで行なわれたか知っておく必要があったからだ。ところが、この物語の中では、牛久沼のシーンは一度も出てこない。牛久宿から牛久沼までは2kmほど離れている。そして、江戸からの道中でも牛久沼を眺める事は出来ない。なぜなら当時の水戸街道は牛久沼辺を通らないで若柴宿を迂回していたからである。

正源寺は、本陣の手前の火ノ見櫓の傍へ切り込んだところに在った。背後は、鬱蒼たる木立で、山門を入ると石畳の道が傾斜して茅葺屋根の本堂へ通じている。(原文より)

 左馬之助は堀本伯道のことを調べるために、宿の主人の案内で正源寺の和尚を訪ねる。
 正源寺は現存するお寺で、実名で書かれている。原文に記載されている通り、山門を入ると石畳の道が本堂へと下っている。現在は茅葺屋根ではないが立派な本堂を持つ曹洞宗の古刹である。
 左馬之助が正源寺を訪ねたことによって、堀本伯道が牛久からほど近い藤代宿にいたことが分かった。藤代宿は、牛久宿から江戸に向かって二里の近間である。

「曹洞宗正源寺」画像を見る