鬼平犯科帳、雲竜剣三
この物語と牛久沼の関わり二
藤代宿
常陸の藤代は、江戸から街道を約十三里。さらに約二里をすすむと牛久の宿駅となる。
藤代の宿駅は、牛久沼や小貝川・利根川沿岸の台地に囲まれた低平坦地だ。そして、これらの河川の氾濫のたびに水害が起こっている。幕府は、遠く寛永のころから、関東郡代に命じて、小貝・鬼怒・利根の三川の治水に取くみ、二千間におよぶ大堤防を築き、このあたりを穀倉地帯にすることを得た。(原文より)
この記載事項で、池波正太郎は大きな間違いをしている。藤代は下総国である。池波正太郎は茨城県がそのまま常陸国だと思ったのだろうか。実際は茨城県の西部、利根川寄りの多くは常陸ではなく下総である。明治以降のこの辺の県の変遷は幾度となく複雑に行なわれているから、勘違いする人も多いだろう。また、細かい部分で資料の収集不足を感じる。たとえば、「さらに約二里をすすむと牛久の宿となる。」この部分の文章によると、途中の若柴宿のことが欠落している。物語の歴史的、地誌的な背景を説明する以上、当然若柴宿の記載が必要なのである。更に、藤代宿の特徴とも言える、合宿の形態。つまり二宿で一宿を成していたことの説明が欠如している。つまり、藤代宿は、宮和田宿と藤代宿の二宿を併せて藤代宿と呼んでいたのある。
池波正太郎は、超売れっ子の時代劇作家だった。どうしても机上での仕事が中心となり、現地調査や資料収集は他人任せになるのが普通で、まして、片田舎の牛久や藤代の調査が疎かになっになったのも無理からぬことである。しかし、現地の読者のことを思うと、たとえフィクションであっても、こういう地誌歴史の説明部分は、きっちり調査をしてから作品にして欲しかった。不幸にも「常陸の藤代宿」という記載が重ね重ね目についてしまった。
小貝川(宮和田の渡し場)
左馬之助は、間もなく、小貝川の渡し場へ出ていた。
西の空の灰色の雲間から残照の色がわずかにのぞまれた。
川岸を吹きぬける風の冷たさに、左馬之助は身ぶるいをした。
渡し舟は、まだ対岸にいたが、すぐに数人の客を乗せ、こちらへ川をわたって来た。
こちらの岸辺には、子供を背負った農婦らしい女と、旅姿の町人と、これも、笠をかぶった旅の侍がひとり。
左馬之助を含めて五人が舟を待っている。
子供と農婦は別にして、旅姿の町人と侍は、たがいにはなれて立っている。
舟が着いた。
葦の群れが風に鳴っている。(原文より)
左馬之助が藤代宿から牛久へ戻る時のシーンである。小貝川の渡し場、つまり宮和田の渡し場の情景が描かれている。江戸時代においては、政治的な理由からであろう、大きな川には橋が架かっていないのが普通であった。旅人は難儀をしたであろう。川を渡るには、舟に乗るか泳ぐしかなかった。
ここでは宮和田の渡し場で舟に乗り、対岸の小通幸谷村で降り、常陸国の第一歩を踏むことになる。つまり、この川が下総と常陸の国境なのである。現在の千葉県と茨城県の県境とは大幅に相違している。原文には記載されていないが、晴天なら、この渡し場からあるいは舟上から左前方に雄大な筑波山が望める。