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小貝川南下、二

pm3:07
旧小貝川
 蛇行の甚だしい小貝川が河川工事などの過程を経て川道から断たれた部分が三日月湖となった。それが高須町から大留町にかけての旧小貝川である。その旧小貝川の一部は、青々としたレンコン畑になっていた。
 龍ヶ崎市と藤代町(北相馬郡)の境界線を小貝川が流れているが、かつて、この辺の川の蛇行は著しく、時代と共に川の流れが変化しつづけた。これも自然のいたずらと言えようか、その結果行政的境界線が変わった。かつての北相馬郡高須村は川を挟んで藤代町と龍ヶ崎市に二分された形で地図上に存在する。

pm3:15
水天宮
土手に沿って更に南下すると、小さな祠があった。申わけ程度の鳥居もある。これは、おそらく水神を祭った水天宮であろう。水神に対する畏怖なのか、小貝川の周辺にはこの手の祠が数多くある。

pm3:18
豊田堰
威風堂々とした堰が見えてきた。小貝川最初の堰、豊田堰である。昔の面影はとどめていないが、この堰は伊奈忠治の孫にあたる伊奈忠常が工事を監督したという。当時は土で作った土堰であったらしい。小貝川に対する治水の歴史がここにも込められている。

pm3:25
北浦川と小貝川の合流地点
藤代町内を流れる北浦川と西浦川という小さな川が合流し大川となる。その大川が小貝川と合流し更に大きな川となり、まもなく小貝川は利根川と合流し果てしなく大きな川となる。今回のサイクリングのテーマは合流。ここにも川と川の合流の姿があった。

pm3:26
北浦川水門
北浦川と小貝川の合流地点には、近代的な水門があり、小貝川から北浦川への逆流を防いでいる。

pm3:27
酒詰治左衛門の成績碑
水門の隣に、治水に功績のあった酒詰治左衛門の碑があった。その紹介文には嘘のような本当のような・・・次のことが書かれている。
 この碑文は偉大なる治水功労者、酒詰治左衛門正辰の業績を讃えるものです。
 酒詰治左衛門正辰は文化四年(1807年)高須村伊藤市郎左衛門家に生まれ、当時の名主酒詰家へ養子縁組し、地積調査や堤防構築の識高く、特に度重なる神之浦の堤防決壊に私財を投じて修築し、相馬二万石関係三十二ケ村の穀物の増収に貢献した幕末の老農であり、慶応三年九月三日六十歳でこの世を去りましたが、この偉業に対し、人々は深い感謝の気持ちを込めてこの碑を建てました。
 明治十三年(1910年)秋の洪水は未曾有のものでした。十数日間も降り続いた雨水は黒い濁流となって小貝川を流れ、堤防を越えて濫流する程でした。それでもなお、正辰が造った堤防だけはことなきをえました。
 人々はこの時、白装束の人が提灯を振りかざし、行ったり来たりしながら、堤防を守っている姿を見たというのです。そして、「正辰の霊がこの堤防を守ったのだ」という噂は広く伝わって今でも語りつがれています。