女化神社
初午の例祭
毎年旧の2月最初の午の日にお祭りが行われる。 これは、春の農耕のために山々の神を招き講じる行事だという。
江戸時代より近隣のみならず遠方からの信者も多く押しかけ、日ごろは人影のない原っぱが忽然と門前市になったという。現在でも近隣や関東一円から信者が集まり、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全を祈祷してもらっている。また、植木市や露店が並び近隣から物見遊山などで賑わっている。
建造物
社殿の造営に関しては不明であるが、享保14年(1729)と文久元年(1861)の二度にわたる野火で類焼したと記録されている。現在の社殿は文久2年に馴馬村の名主山崎茂右衛門などの寄進により造営されたものである。社殿裏手に改築記念の石碑に文久二年十一月三日の年代が刻まれている。
更に古いものとしては、享保4年(1719)建立の奥の院の石祠がある。これは通称「お穴さま」と呼ばれ、伝説の狐女房譚で母狐が姿を消した場所と言われている。
また、社殿裏に石祠が建っているが、これは焼失した社殿に代わるものとして建てられたらしい。
参道の石の大鳥居は、寛政5年(1793)馴馬、大羽谷津(竜ヶ崎市若柴町)等世話人が願主となって奉献された。
社殿の前に、狐の石像が2基あるが、これは明治2年(1869)に東京深川の大黒屋藤助、岡田屋宗兵衛の寄進によるものである。この像は他のお稲荷神社のものとは異なり、右側が1匹の子狐をつれているので、この地の由来、狐女房譚をモチーフにしたもので、この神社を特徴付けている。
女化神社の不思議
不思議である。女化神社の所在地を地図で確認すると、明らかに牛久市のはずであるが、住所を調べると竜ヶ崎市馴馬となっている。何か狐に騙された気がする。しかし、よく調べると社殿の周囲の僅かな敷地だけが竜ヶ崎市の飛び地となっている事が分かる。
飛び地といっても隣接の若柴町の飛び地なら理解出来るが、5kmほど離れた馴馬の飛び地である。その奇妙な訳は以下のとおりである。
女化神社の由来を記載した『常州女化稲荷大明神縁起』によると「去程に女化原稲荷の宮も原火事にて類焼して跡かたもなし、誠に変化の有様是非も無き次第、爰(ここ)に馴馬と云う所には松田次左衛門と云う者あり、常々稲荷信仰なれば情無く思ひ、古跡なりとて右宮を立て常州女化稲荷と大明神と唱ひ、神酒など備えへて守護致しける」となっている。ところが、その後松田次左衛門は俗家のため、管理者を同じ馴馬の寺院、来迎院に譲ることになる。女化神社はこれ以後明治に至まで馴馬の村社として来迎院の守護することになるのだが、そのような過程を経て社殿の所在地は竜ヶ崎市馴馬の飛び地となった。