はじめに1
牛久沼周辺における武士の台頭
平将門の乱の平定に功のあった平貞盛や藤原秀郷の一族が武士団として常陸国や下総国に勢力を伸ばした。彼らは開墾を進めながら、一方では力で公地を己が領地として荘園を広げた。
平貞盛の一族は大掾家として繁栄し、子孫は常陸権介に任じ、筑波から鹿島に至る六群の領主となった。鎌倉幕府成立後も常陸平氏、下総平氏を名乗り、この地方に多くの知行地を保持していた。下総平氏の一族が鎌倉時代の末期に岡見郷(現牛久市)に館を構え岡見(尾上)を名乗り、岡見氏の祖となる。後に岡見氏は小田氏より婿を迎え、その一族となった。
藤原秀郷の子孫は、下河辺氏を名乗り、下総古河付近を開墾し領地を広げていった。下河辺政義は保元の乱の功により、常陸国の石岡以南の地頭職となり、代官を派遣しこの地を支配した。その後、鎌倉政権が安定すると、下河辺氏は義経に与していたという理由で所領の総てを失う。しかし、下河辺氏の子孫の一部はそのまま常陸国南辺に土着してこの地の開墾を進め、やがて竜ヶ崎氏を名乗るようなった。
後三年の役(1083〜87)にて奥州の阿部氏、清原氏を平定した源頼信の弟義光はその功により常陸介に任じられた。義光の孫の昌義の代には佐竹氏を称して常陸国北部に君臨するようになった。
鎌倉期には、鎌倉の有力ご家人宇都宮氏の一族八田知家は鎌倉政権設立の功で常陸国の守護職に任じられ小田(現つくば市)に小田城を構え本拠とした。その後八田氏は小田姓を名のる。小田城は南北朝時代は南朝方の関東における拠点となる。南朝滅亡後、小田氏は足利幕府のご家人となるが、多くの所領を失う。
関東管領として鎌倉府における絶大な権力を持っていた山内上杉氏は、小田氏から没収した所領、河内庄の一部を家臣の長尾憲景に分け与えた。しかし長尾氏には跡継ぎがなかったため、身内の臼田氏(霞ヶ浦東岸を支配)にその所領を譲る。また、山内上杉氏は家臣の土岐原秀成を信太荘に入部させ勢力を広げた。つまりこれが江戸崎土岐氏の初代である。
南北朝になると、下総の結城氏が武蔵国足立郡及び埼玉郡に所領を与えられると、多賀谷氏は結城氏の家臣として頭角を現す。享徳の大乱(1454)では、古河公方成氏の命で関東管領上杉憲忠を討ち、その報酬として、下妻庄内に三十三郷を与えられ、結城氏の家臣ながら独立性を強めてゆく。