竜ヶ崎城と土岐氏
竜ヶ崎第二高校が建っている高台は、かつて竜が峰といわれ、古くから城が築かれていた。さて、誰が築いた城であるか分からないが、江戸崎城主・土岐治英は次男の土岐胤倫(ときたねとも)に竜ヶ崎城の改築を命じている。それ以前は竜崎氏の居城であったとも考えられるが、竜崎氏の古城は別のところという説がある。
土岐治英はその翌年永禄11年(1568)に胤倫を正式に竜ヶ崎城主として配置させた。それは上杉氏対北条氏という対立の枠組みの中で、治英は土岐領を分割して江戸崎城を中心とした地域と、竜ヶ崎城を中心とした二つの拠点を作り、土岐氏の安定的な支配を目論んだためであろう。
ところがその後、両土岐氏は北条氏の傘下に入り、岡見氏と共に、佐竹・多賀谷氏らと対峙していたのであった。このような状況下で江戸崎城の後を継いだ治綱と竜ヶ崎城の胤倫との兄弟の不和・対立が顕在化したのである。
土岐氏は、この対立の解決への糸口が見い出せないまま、豊臣秀吉の関東侵攻を迎えることになり、天正18年(1590)江戸崎城、竜ヶ崎城は、豊臣方の軍勢によってもろくも攻め落とされた。ここに土岐氏は事実上断絶した。この時の竜ヶ崎城主であった土岐胤倫は幼子頼房を抱え、重臣と共に城を脱出して諸国を流浪した。胤倫は流浪の果ての慶長4年(1599)に没したといわれていが、その子頼房はその後徳川家康に拝謁し、駿河国内で知行を与えられ、名字を母方の豊島に改めた。その後紀州徳川家の家臣として大坂の陣にて活躍する。その後、土岐に復姓し、出世の糸口を確実に手にしたのである。頼房の子土岐朝澄は徳川吉宗の幕臣となった。
享保12年(1728)6月、伊達政宗の曾孫・伊達吉村が参勤交代の帰り、領地である竜ヶ崎を訪れ時、次の言葉を残している。
「北にあたりて古城あり、東は鹿島の海が見えて眺望かぎりなし」と龍ケ峰から見た風景をを絶賛した。
「北にありて古城あり」は本丸があった位置を示しているのだろう。昭和40年頃迄の龍ケ峰はもっと北に延びていて、本丸があった北側は土地開発のため削られて跡形もなくなってしまった。
「東は鹿島の海が見えて」は、江戸時代の初期ごろ迄は霞ヶ浦が海とつながっていて、竜ヶ崎近くまで入り江となっていたのであろう。そうすると、鹿島の海は龍ケ峰からは充分見渡せる距離である。