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遠山城2

室町時代初期、長尾憲景は牛久沼を見下ろす景勝の地遠山郷に居城を築き常陸国河内郡南部を支配した。現在の牛久市西部から伊奈町にかけての郷や村である。もともと、この地域は小田氏の所領であったが、小田孝朝が鎌倉府に反旗を翻し、所領の大半を没収された。鎌倉府における絶大な権力を持っていた山内上杉氏は、その没収した所領の一部を長尾憲景に分け与えた。長尾憲景は山内上杉氏の家臣で、鎌倉府侍所の奉行人を勤めていて、上杉氏からの信望が篤かった。こうして、長尾憲景は鎌倉の荏柄谷に屋敷を構える一方、常陸国遠山郷にも居城を築き、この地方の運営を始めた。そして当時の牛久市域と鎌倉は憲景を介して太いパイプで結ばれる事になった。そのための大きな役割を果たしたのが鎌倉街道下ノ道で、今でも牛久市地域には鎌倉古道ど呼ばれる古い街道が断片的に残っている。余談だが、鎌倉街道とは、"いざ鎌倉へ≠合言葉とした鎌倉時代に作られた軍事的な道路で、ちなみに、上ノ道は信濃、越後方面に、中ノ道は奥州方面に、下ノ道は江戸から松戸、石岡方面に延びていて、いずれも鎌倉を基点としていた。
 さて、順風満帆だった長尾憲景にも悩みがあった。跡継ぎがいないのである。そして自分自身も病気気味で、これ以上の領地の運営の困難さを悟った。彼は折角所有した領地を山内上杉氏に返すのであるが、この時、強い願いが込められていた。縁者の臼田氏に引き継いでもらいたいと。この願いは山内上杉氏に聞き届けられた。遠山郷を含めた長尾氏の所領は総て臼田氏に与えられたのである。実は臼田氏も山内上杉氏の家臣で、信太郡、特に霞ヶ浦西岸一帯の領地を与えられていた。つまり長尾氏と臼田氏は共に山内上杉氏の家臣で、更に領地が近い事もあって婚姻関係によって、いっそうの連帯感を強めていた。おそらく、憲景の姉か妹。あるいは娘を臼田氏に嫁がせていたと考えられる。これによって、臼田氏は河内郡の西部を加えた広範囲な領地を支配することになった。しかし、遠山城がそのまま臼田氏の居城になったとは考えにくい。現在の美浦村に臼田館という居城を構えていたため、遠山城はその出城として縁者か家臣を住まわせていたのであろう。
 戦国期になると臼田氏は常陸国南部で勢力を振るっていた江戸崎城の土岐氏や牛久城の岡見氏と連携を深めていた。岡見氏は多賀谷氏との戦いに敗れ滅亡するが、羽柴秀吉の天下統一に際しては、臼田氏と土岐氏は共に小田原北条氏に従って秀吉の侵攻を阻止しようとする。しかし時勢の流れには勝てず、両氏は事実上の滅亡を迎える。その後の遠山城がどうなったかは分からない。

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