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牛久城と岡見氏2 

牛久在番
北条氏対佐竹氏の対立の影で、岡見氏対多賀谷氏が代理戦争の如く対立していた。つまり北条氏は佐竹氏攻略の足掛かりに岡見氏は必要で、一方岡見氏は多賀谷氏に対抗する為北条氏の力が必要があった。やがてその関係は岡見氏にとっての北条氏の依存渡が強まり、牛久在番を置くことになる。つまり北条氏支配下の各藩は交代で牛久在番を置き警備にあたった。彼らの居住地が本丸北側を大きく占めていたのである。

「大手門」画像を見る
大手門は、堀切りのほぼ中央に「喰違い虎口」と「桝形馬出し」を備えた厳重なものであった。牛久沼を見下ろす城中町の一角に市指定文化財として僅かに残って入る。

「牛久市城中町に今も残る土塁跡」画像を見る

牛久城の支城及び知行地
岡見氏は多賀谷氏への戦略的拠点として次々と支城を築き兵力を配置した。足高城(伊奈町)、東林寺城(牛久市)、矢田部城(つくば市)、板橋城(伊奈町)、若柴城(龍ケ崎市)などである。知行地として野掘(伊奈町)からくりかけ(つくば市)までの八十六の郷村を領していた。これらの知行地は主に西方、小野川流域から東西谷田川流域にかけて広く分布していた。
東には江戸崎城主.土岐氏が北には土浦の菅谷氏が、南には布川城の豊島氏がいた為、岡見氏の勢力は主に西へ伸びて行った。

「足高城址(伊奈町城中)」画像を見る
「東林寺城址(牛久市新地)」画像を見る

栗林義長の活躍
栗林義長は幼名を竹松という、出生はさだかでないが、民間伝承では女化ケ原の狐の孫といわれている。
京の都で兵学を柳水軒白雲斎に学び、名前を柳水軒義長という名前をいただく。やがて出生地常陸の国に戻り、牛久の城主岡見氏の武将栗林左京亮の門をたたくと記録されているが、栗林左京亮は、もしかすると牛久支城の足高城の武将だったかもしれない。義長はその後栗林氏と養子縁組し栗林義長と名のる。
天正11年(1583年)14年頃のことである。幾多の戦いで頭角を顕わした義長は北条氏尭によって総大将を命じられる。総大将になった義長は、多賀谷水軍との戦いでは諸葛孔明のごとく火攻め計を考える。戦場は小貝川、当時は水量も多く川幅も広かったのであろう、水軍戦である。義長は夜明け前から味方の水軍を葦の中へ潜ませて敵の来るのを待ち伏せし、一方多賀谷の水軍は数十艘の舟を連ね、鉦や太鼓を打ち鳴らしながら川を下ってきた。義長は風を計算しチャンス到来とばかりに狼煙を上げさせ、一斉に襲いかかる。火矢を雨のごとく射かけ油壺を投げ込み敵は大混乱に陥いり多くの負傷者や戦死者を出し敗走し義長軍は大勝利を得たのである。
さらに上総、下総で勢力をはっていた千葉頼胤は佐竹氏と共謀し北条方の小田氏、岡見氏を挟撃しようとしたが、義長はそれを見抜き、大軍を率いて下総地方に攻め入りこれを平定す。
佐竹勢に竜ヶ崎城を落とされ、江戸崎城も攻められた土岐伊予守は義長に援軍を求める。それに答えて直ちに軍を進め竜ヶ崎城を奪い返し、江戸崎城を救った。
こうして幾多の戦場で勝ち進んだ武将も病には勝てず、ついに天正15年(1587年)その生涯を閉じた。享年58才であった。没後岡見氏によって東林寺(牛久市新地)に葬られた。
栗林義長を失った岡見氏はやがて滅亡を迎えるのであるが、それはあまりにも急速な出来事であった。