牛久城と岡見氏3
岡見氏の終焉
小田氏滅亡後はそれに変わって岡見氏が勢力を振るい、天正5〜6年ころ最盛期を向かえるが、つかの間の栄華であった。
下妻城主多賀谷重経は北条氏を破り、その勢いで矢田部、足高、牛久の諸城を攻め立てる。天正14年まず矢田部城落城、続いて足高城に襲いかかったが、足高城主岡見宗治は守備を固めて篭城、牛久、若柴の城主に援軍を求め善戦したが天正16年力尽きて落城し城を脱出し牛久城へ入る。その後宗治は牛久城主岡見治部大輔と力を合わせて戦ったっが、治部大輔は手兵五騎を従え、茎崎・高崎へ落ち延びる。一方宗治は土浦方面へ落ち延びる(死亡説あり)。こうして岡見氏の牛久城は終焉を迎えた。
その後の岡見氏
岡見治部大輔はその後江戸崎に潜伏していたと伝えられているが定かでない。それからまもなく越前國に移り結城秀康に仕官して500石の知行を与えられる。彼は余生を越前で送り、元和3年(1617)その地で生涯を閉じた。
岡部宗治は牛久落城とともに死亡という説もあるが、一方暫らく土浦周辺に潜伏し、その後慶長6年(1601)に下総布川の松平信一が土浦城主になった時、これに仕えたという説もあり、ようするにその後の彼の足跡は明らかでない。
従軍覚書
茎崎町史を調べていたら面白い記載事項があったので紹介する。
多賀谷氏配下の野口豊前という武人が口頭でのべたものを役人が覚書として記録したものである。
このような覚書は、己が褒賞を少しでも多く貰いたいが為、多少の偽りが含まれる場合が多く信憑性は低いが、しかし当時の戦国武士たちの心情や戦いの状況を理解する上で重要な記録である。
以下茎崎町史より原文のまま転記したものである。
天正十一年(1583)九月八日
矢久・矢田部での合戦で岡見方は鉄砲を使用したが、発砲音に驚いた多賀谷勢がかえって興奮して敵の首を三百八十程取った。
天正十七年(1589)某月某日
多賀谷勢が矢田部の城に在留 している時(この時矢田部城は多賀谷軍に占拠されていた)白硲(つくば市)で牛久勢と対戦し、鉄砲で負傷した。
天正十七年(1589)九月二十四日
足高城下落とされた板橋を槍二本の上に敷き直して攻め入った。
天正八年(1580)某月某日
下妻衆(多賀谷氏)と小田原衆(北条氏)が矢田部城を取り合った時、下妻衆が橋を踏み外して堀底に落ちてしまった。
正八年(1580)某月某日
牛久東輪寺(東林寺)で下妻衆の糸賀大蔵が牛久衆の槍で馬から突き落とされ殺されそうになたのを救った。又、当方の槍がを蹴落とそうとした敵を下妻衆の小貫殿助が討ち捕った。
天正十六年(1588)十二月二十八日
下妻衆が牛久の東輪寺城を攻めた時、味方の飯村豊後が馬から落ちて危険であったので救出した。又、小茎(茎崎町)の堀の際で敵に追われたが逆に首を七つ取った。
天正十六年(1588)某月某日
矢田部の坊地(茎崎町)に敵(小田原か牛久)が船で上陸せんとしたので、坊地の山へ出かけて行って阻止した。
天正十五年(1587)某月某日
足高城を水攻めにしようとした時、足高衆と槍合戦をしたが、味方がひるんだため、多賀谷信濃以下七名が討たれた。自分等も敵の首を七つ取り、主人重経より礼状を下された。