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女化原開拓、二

続、開拓
 やがて開墾の努力もあって耕作地は大幅に広がり、麦の他に作れるものは何でも作った。陸稲、サトイモ、ひえ、粟、大豆、とうもろこし、甘諸、たばこ、などなどである。更に明治40年になると、加燐酸灰肥料が普及し、生産額は急激に増加した。
尚、津田農場崩壊の裏側で、神谷伝兵衛という洋酒醸造の先駆者が、その農場の一部を買い取り、ぶどう園とし、更に牛久駅の程近くに醸造施設「牛久シャトー」を完成させ、女化開拓の新たな一面を切り開いた事を、付け加えておこう。

女化分教場
 女化原開墾の中心的役割を果たした人物に杉本民蔵というクリスチャンが居た。彼は徳島県からの移住者で、村づくりの柱として教育、宗教の重要性を強調した。彼の呼びかけによって明治24年に、教会を兼ねた化成学館という私立の小学校が開校した。しかし、宗教色が強く開拓者仲間からの反発もあり2年で廃校となった。だがしかし、民蔵の教育に対する熱意は失せる事なく寄付を募り、明治31年新たな小学校、私立女化尋常小学校が化成学館の隣敷地に開校した。その後学校関係者は村当局と度々折衝を重ね、岡田村立尋常小学校となる。移住者にとって、幾多の困難の中で出来た小学校は喜び一入で、心のよりどころとなり、学校教育だけでなく、移住者の集会所として使われ、相互の絆を深めていった。その後校名は村立岡田小学校女化分教場となり、昭和47まで存続し、現在は牛久青年研修所として使用されている。
今もなお、女化分教場は開拓のシンボルとして、女化原の歴史を刻んでいる。

女化分教場(牛久市女化)画像を見る

豊かな女化原
女化原は幾多の困難を乗り越えて、稔り多い大地となった。大正時代には桑苗、桐苗、落花生が盛んに作られるようになり、昭和になると、野菜、にんじん大根、牛蒡や西瓜、果樹栽培もおこなわれた。女化の落花生は特に有名で郷土の特産物になっている。また、蓑の原料である「ササメ」と刷毛の原料の「カルカヤ」の生産地でもある。
 近年に入り都市化が進み、かつて移住者達が開拓した土地は新興住宅が建ち並らび、新たな移住者達の生活の場となっている。街道筋は車の往来が激しく、道の両脇にはパチンコ店や飲食店が並んでいる。点在する落花生畑は開拓当時の面影を偲ばせているが、苦渋に満ちた開拓の歴史は忘れられようとしている。