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水戸街道藤代宿3 

飯田三左衛門 
 飯田氏は藤代宿の名主で、もともとは新田義貞の血筋で、横瀬氏を名のっていた。つまり牛久城主の由良氏も、上州金山城時代の初期は横瀬氏を名のっていて、当然両氏は縁者と考えられるが、両氏の関係についての詳しい文献はない。おそらく由良国繁が城主として牛久にやって来た時、横瀬(飯田)氏も家臣として追随したものと考えられる。ところが国繁の死後由良家は没落し、その家臣の横瀬氏も平民に身を落とし、路頭に迷ったと想像出来るのだが。2代目横瀬氏は、小貝川の改修工事の功績により、伊奈忠治から、反田2石5斗与えられて財を築き、そして、4代目において飯田三左衛門を名のり、名主としての地位を不動のものにしたと考えられる。

取手から藤代までの街道
江戸時代初期の水戸街道は、我孫子から利根川に沿って布川、須藤堀、そして若柴宿に至る迂回路だった。ところが伊那忠治による治水の進展により、取手・藤代間の湿地帯が次第に水田化し、貞亨年間(1681〜1688)にかけてここに新たに道が設けられた。このことにより、藤代は水戸街道の宿駅としての機能を持つようになったのだが、しかし、取手宿〜藤代宿間の街道はとにかく悪路であった。地盤が悪いため、ちょっとした大雨でも路は泥濘、とても歩けた状態ではなかった。そのために本道のほかに下記の通り三通りの廻り道を必要とした。

本道り
取手宿→長兵衛新田→吉田村→小泉村→酒詰村→米田村→谷中村→藤代宿(現在陸前浜街道と呼ばれている道)

中通り
取手宿→井野村→酒詰村→谷中村→藤代宿 (現在のJR常磐線に沿っている。)

水戸往還椚木廻り道
取手宿→l桑原村→毛有村→椚木村→藤代宿 (中通りより500m程北側、国道6号線にやや近い) 

大廻り道
取手宿→寺田村→和田村→小貝川堤防沿→藤代宿(岡堰の方まで迂回し、小貝川に沿った道)