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はじめに

江戸時代の牛久沼周辺
 江戸幕府が開かれると250年以上にわたる平和と繁栄の時代が訪れる。牛久沼周辺においても信太郡には仙台藩領、牛久藩領、河内郡には幕府直轄領、谷田部藩領、相馬郡には相馬藩領と幕藩体制が築かれていた。
 幕府は政治的中心の江戸と全国を結ぶため、東海道や日光街道など五街道の他にそれに準ずる重要な街道を脇街道と称して、多くの街道を整備した。龍ヶ崎・牛久方面を通過する水戸街道はその脇街道の一つで、特に徳川御三家の水戸と江戸を結ぶ重要な街道と考えられていた。そして当地方においては藤代宿、若柴宿、牛久宿の宿駅が設けられていた。その中でも牛久宿は水戸街道の真ん中にあたり、規模も比較的大きく、宿場の負担の増大が引き起こした農民の反乱、牛久一揆は郷土史の重要な位置づけである。
 一方幕府は、生産力を上げるため、治水や開墾を奨励した。伊奈忠治の利根川の開削や小貝川の治水は見事に成功したが、桜井庄兵衛の牛久沼の干拓等は惨めな結果に終わった。このように牛久沼周辺においても、農地の開墾が盛んに行なわれた時代であった。
 仙台伊達藩龍ヶ崎村は主に江戸仙台藩への食糧供給の中継基地として栄える。山口藩牛久村は水戸街道の宿場町として栄え、両村とも当地方の経済・文化の中心的存在であった。
 江戸時代も後半になると生活・流通の変化、商品生産の拡大が、米を中心とした農本主義の経済方針と合わなくなり、財政難や農村の困窮を招いた。その上に、海外からの圧迫が拍車をかけ、ついに各地の尊皇攘夷派が幕藩体制打倒のため行動をはじめた。水戸藩の尊皇攘夷派が筑波山に集結、挙兵した天狗党の乱も、このような世情の中で起こった。慶応3年(1867)の大政奉還により、時代は明治へ移り近代化の時代へ向けて突っ走るのである。