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伊奈忠治の治水2

 一方、江川を用水路として利用していた下流の龍ヶ崎村など三ヶ村は、このままでは用水が不足する恐れがあるので八間堀の川口を築留めとするよう忠治に訴えた。幕府は検分のすえそれを認め、八間堀を築留めることと、用水を自由に引くことを認めたのである。
しかし、八間堀を築留めとしたのでは排水能力が著しく低下し、ふたたび萱場谷原が牛久沼の氾濫に遭う恐れがあるので、そうした被害を守るために、沼の西側を南北に堤防を築いたのである。この堤防は八間堀口から福岡村(現谷和原村)まで続き、その長さから二千間堤と呼ばれるようになった。.
こうして、二千間堤のお陰で萱場谷原一帯は水害から免れるようになったのであが、こうした牛久沼の治水工事を巡る争いはその後も延々と続くのである。

伊奈忠治いな・ただはる(1592-1653)

伊奈忠次の次男で、父に河川工法を学び、若くして大規模な治水事業に挑んだ。
利根川の東流工事、小貝川と鬼怒川の分流工事、福岡堰・岡堰・豊田堰の築造などの当地方の主な治水工事の指揮をする。そのほかでも荒川と利根川を分離し、荒川一帯の新田開発を進めるなど、治水工事に著しく凄腕を振るった。
 1642年には、のちに関東郡代と呼ばれる職に就いて、その後は伊奈家の世襲となる。

参考文献、龍ヶ崎市史、近世編