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桜井庄兵衛の干拓1

背景
 八代将軍吉宗は、将軍の権力を強化し、積極的な財政の建て直し政策をとった。
まず倹約令をだして財政支出を抑えるとともに、治水・新田開発に力を入れ、また河川敷における流作場の開発や芝地・秣場への課税など、これまで対象とならなかった微細な土地までが開発や課税の対象となったのである。
特に江戸の人口は増加する一方で農産物が不足し、その需給拡大を関東地方の原野及び湖沼開拓に向けられた。
そのような背景の元に牛久沼の500町歩という土地の開発計画は進んでいったのである。

牛久沼近隣の利害関係
 地域農民の牛久沼への関心は高く、水を巡っての争いは絶えなかった。
牛久沼の水争いは通常の水争いと違い、上流と下流とでは水の使用目的が違っていた。
上流の25ヶ村(現在の茎崎町、伊奈町、つくば市谷田部)は排水などの悪水落しにつかい、下流の9ヶ村(現在の竜ヶ崎市、河内町)では用水原、特に水田への水引に使用された。
当時は治水が悪く、毎年のように洪水に悩まされ、小貝川の水が逆流し沼周辺の田畑は水没が絶えなかった。下流村にとっ欠かす事の出来ない牛久沼の水は、上流村には水害の源でしかない、そのような状況で八間堰を巡って論争が繰り返されて来た。

桜井庄兵衛の干拓出願
 下総國相馬郡平野村(現藤代町)出身で常陸國牛久村の豪農、桜井庄兵衛は享保10年(1725)牛久沼の干拓を勘定書に出願する。勘定役、井沢弥惣兵衛為永の調査と設計に基づき干拓が許可されるが、条件は厳しいものであった。その条件とは、下記の通りである。
地代金  3750両(開発権利金)の納入
干拓完了後、新田検地により年貢高の決定
取り敢えず、冥加米(年貢の代わり)、1年200石(500俵)を上納
この通り、不可能と思われるぐらいの厳しい条件は、後に庄兵衛の財政破綻を引き起こすのである。