桜井庄兵衛の干拓2
干拓開発
開発にあたってまず、東西から流れ込む谷田部川、境松川(現、西谷田部川)から沼内に流れ込む悪水を制御するために、沼の2つの入り口、北浦には小茎村(茎崎町)に地内に、また西浦には板橋村(伊奈町)に締めきりを設けるとともに、江川に平行して約8間(14.5メートル)、長さ4500間(8.2キロメートル)の水抜掘りを開削し、小貝川に放流させた。また、境松川・矢田部川の周囲には、沼内への流水を防ぎ、江川へ流し込むための堤防をめぐらせた。一方用水源を失う下流の9ヶ村に対して代替として、小貝川に洗堰を築き、福岡堰(谷和原村)用水の余水を振り向けるため、伊丹代用水を開削し、江川へ振り向けた。
こうして総ての準備が整い享保12年(1727)からいよいよ沼内の干拓が始められたが、開発は困難をきわめ工事は遅々として進まなかった。
干拓の挫折
干拓失敗の要因は、まず第一に水害が考えられる。小貝川の水の逆流や堤防の決壊などによる沼内への流水が度重なって難工事となったのである。次に庄兵衛の経済的破綻が大きい。まず、地代金を払えなかった。(3750両の内、712両上納)冥加米も未納、そして難工事のため幕府から1000両を借金したが、267両が未返済となった。そのような状況の中で勘定役井沢弥惣兵衛も他界し、干拓工事への情熱を失ってしまった。しかし直接の要因は、下流域9ヶ村(竜ヶ崎市、河内町)の農民による牛久沼用水源(溜沼)復帰運動が盛んに行われ、箱訴(評定所の目安箱へ訴える事)によって干拓差止めとなったのである。
9ヶ村による箱訴
牛久沼の干拓とそれに伴なう伊丹代用水の開削は、上流域の25ヶ村に対しても、用水不足と悪水の充満という被害をもたらしたのである。それにもまして、下流9ヶ村は用水不足が深刻であった。9ヶ村では用水不足の実態をさまざまな形で訴願を繰り返してきたが、なかなか聞き入れられなかった。そして宝歴11年(1761)改めて各村の名主をを総代に立て、牛久沼を元の溜沼に戻すよう幕府の勘定奉行へ訴願に出向いた。ところがこの訴願が却下されただけでなく、新たに余分な普請まで請け負ったのである。驚いた9ヶ村は名主による訴願に見切りをつけ、若柴村の次郎兵衛、生板村の三郎兵衛、川原代村の善左衛門の3人を総代に立て箱訴におよんだのである。
この箱訴の内容は、まず、第一点として、新たに請け負った普請の取り消しすこと。第二点として、溜沼への復帰を認めてもらうための代替条件を引き受けること。第三点は庄兵衛の運上金横領などの非儀を訴ること。であった。
勘定奉行所では代替条件や庄兵衛の願意など吟味を繰り返し、宝歴14年(1764)やっと裁定が下された。牛久沼御裁許書によると、庄兵衛に対し、僅かに残った干拓地18町9反を請地とする。今の庄兵衛新田の事である。
9ヶ村に対しては庄兵衛の借財の肩代わりとして、地代金の未納分750両(15年賦)と借金残高267両(2年賦)を納入すること。その他に運上金として藻草運上米50俵、魚鳥、蓮根運上米50表を納入するすることであった。
次に関係者への処分として庄兵衛に対し運上金横領は不問にするも、泥深の場所で開発困難な場所と分かったならば計画変更を願い出るべきことを怠り、40年かけても開発出来なかったことに対し「急度御叱」(きっとおしかり)が申し渡された。9ヶ村総代の3名に対しは、本来ならば村役人を通じて訴願を行うべきところ、箱訴に及んだことは不だちとして、同じく「急度御叱」が申し渡された。