桜井庄兵衛の干拓3
溜沼復帰への条件
9ヶ村は以上の如く、厳しい条件が付けられたのにも関わらず、御裁許書を受け入れたのである。それだけ牛久沼の水は用水として利用価値が高かったのである。この様に多くの犠牲を払って牛久沼の利権は9ヶ村のものに成ったのである。
桜井庄兵衛は、苦節37年の年月と私財のすべてをなげうったが、この計画は中断となった。牛久沼の水を農業用水としている川下の農民たちのことを無視したこと、そして技術不足と、しょせん無理な計画であった。
彼は失意のうちに生涯を終えて、そして残ったものは莫大な借金と、わずにのこされた干拓地の庄兵衛新田という地名だけであった。現在、庄兵衛新田町は、竜ヶ崎市のほか、牛久市、茎崎町と分散して残っている。
竜ヶ崎市の庄兵衛新田は明治になって陸前浜街道が施設され、さらにその街道は国道6号線に昇格し、その後の産業の発展に大いに貢献したことになる。
牛久沼干拓堀割遺構
牛久市新地町の牛久沼に面した場所に干拓の掘跡が無残にも残っている。この掘跡は排水路として谷田部川から続く沼内東側に幅約14メートルで掘られた一部である。沼内排水路は沼内西側を含めると約16キロにも及んだが、遺構として残っているのはここだけである。遺構の排水路跡は老松が茂る堤の幅が4メートルほどで、掘は原刑が判らないぐらい浅くなっており、又古い堤の前に新しい堤が施されている。
参考文献、龍ヶ崎市史出版記念公演会資料