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水戸街道牛久宿

牛久宿のかたち

江戸方面からの宿場の入り口直前はやや緩やかな坂道になっていて、登り切ったところに下惣門が建っていた。そこから道幅8mほどの道がまっすぐ北に続き、上惣門(水戸方面からの入り口)までの約800mの区画が牛久宿であった。ちなみに現在のJR牛久駅はここより約600m先で、国道六号線(現在の水戸街道)と合流すると、間もなく右手に見える。
 ある文献に「駅路の出入口両方に途一杯の萱葺の門を建て、山口塁なる事を示せり、相応ある町にして道幅広く・・・」と書かれている。つまり下惣門、上惣門とも萱葺屋根の立派な惣門が建っていて、おそらく門の中央に山口と大きく刻まれていたのであろう。己が領地であることを旅人に知らしめるために。
 
 牛久宿は下町と上町で構成されていて、中央には宿場の継立(つぎたて)を運営する問屋場(といやば)があり、また正源寺の入り口近くには大名旗本が宿泊する本陣(現、農協)が置かれていた。尚、脇本陣は存在しなかったようである。更に街道筋の両側には一般の武士や庶民が宿泊する旅籠屋、たとえば大黒屋、河内屋、麻屋、坂本屋など15軒の名だたる旅籠屋が建ち並び、その他、茶店、湯屋、鍛冶屋、足袋屋、質屋、建具屋、大工、桶屋、馬喰など様々な商工業者が立ち並んでいた。その数124軒と言われている(天保12年調べ)。ちなみに人口は497人と記録さている。(文化元年調べ)
 一口に旅籠屋と言ってもピンからキリまであり、素泊まりの木賃旅籠屋や飯盛女を置いた飯盛旅籠屋などいろいろであった。飯盛女の仕事は、まず旅人の足を洗うことから始まり、食事時には飯を盛り酒を注ぎ、そして夜になると褥を共にする。つまり接待役という名の売春婦である場合が多かった。文政8年(1825)、幕府は関東取締出役令を発令し、飯盛女が派手な服装をする事や、みだらな風俗をする事を禁じたが、客の奪いあいが続き、なかなか守られなかったようだ。また、湯屋は公衆浴場のことであるが、そこには湯女がいて、湯女はお客の背中を流すだけでなく、売春行為に及ぶこともあったようだ。娯楽が少なかった当時、こういうところには近隣からも小銭を持った男たちが押し寄せたのだろう。とかく当時は、このような遊びに掛かる費用は今と比べると格段に安かった。
 また、牛久宿には角屋という人足請負業があって、常時50人ほどの人足が詰めていた。彼らの多くは貧窮した村々からの出稼人、あるいは主家を失った浪人たちで占められていて、求められればどんな仕事でも従事したのであろう。このように牛久宿には、定住者のほかに、旅人や出稼ぎ人、遊興を楽しむ人が群がり、わずか人口500人弱の宿場は、その規模以上に賑わっていたと想像出来る。そして商店にはあらゆる物産が置かれ、牛久という小さな村は地方経済文化の担い手として栄えていた。