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水戸街道牛久宿

牛久宿の特徴

江戸時代の宿駅の主な任務は、公用の荷物の継立(つぎたて)、参勤交代に於ける宿泊場所の確保であり、宿駅が制定された当初は主に公用のものだった。やがて街道や宿駅が整備されると、一般の下級武士や商人までが旅を楽しむ機会が増え、宿駅は彼らの休息や宿泊施設として利用されるようになった。そして、宿駅に人の往来が増え、商品の流通が活発になり、商人や職人などが定住するようになると宿場特有の町空間が出来あがり商業都市として栄える。牛久宿の場合も然り、小規模ながら宿場町として繁栄するのであるが、その実体は民百姓の犠牲の上に成り立っていた。

 水戸街道のちょうど真ん中に位置し、宿駅としても重要な役割を担っていた牛久宿。牛久宿を語るとき、水戸街道の中でも特出すべきことの一つとして、隣の荒川沖宿と合宿(宿場の任務を共に行う)の形態を採っていたことが上げられる。これは荒川沖宿は牛久宿と同じ牛久藩領であることと、荒川沖村の村高が少なかったため、牛久宿が、荒川沖宿の継立の任務の一部を担っていた。つまり、荒川沖宿では、上りの継立を牛久宿まで行い、下りは、牛久宿の継立が荒川沖宿を経て次の中村宿まで行っていたのである。そのため、牛久宿の負担は大きく、常設する人馬も、水戸街道の人馬の配置は普通、25人、25疋(ひき)の常設が義務づけられていたが、牛久宿に関しては50人、50疋であった。これらの宿場の任務を円滑に行うために問屋場(といやば)が置かれ、宿役人が交代で詰めていた。宿役人の代表格は問屋で、その補佐役の年寄、そして書記に相当する帳付、その他雑役人も何人も詰めていたのであろうが、牛久宿の問屋場業務は慢性的な人手不足で、そのため、助郷村(大名行列時人足を補うために指定されて応援の人馬を負担する近隣の郷村)への依存度が大きかった。

 問屋場は、公用の荷物の継立と助郷の差配が主な仕事で、特に代表格の問屋は責任が大きく、藩の家老や幕府役人との折衝も必要で、村の有力者が勤めるのが常であった。そのため、牛久宿では村の名主、麻屋家が代々仕切っていた。
 大名行列の時などは、藩から先触(さきぶれ)が問屋場に届き、行列の規模と日程を前もって知ることが出来きた。問屋場はそれによって、定助郷や加助郷を差配した。また、大名行列の規模が大きい時は、本陣や旅籠屋だけでは部屋割が出来ず、寺院を宿泊施設として利用出来るよう手配することもあった。一番やっかいなのは、大名同士の鉢合わせで、格式と体面を重んじる大名の気質を考慮し、大名側とねばり強く折衝し、宿泊が重ならないように調整する必要があった。このように問屋は山口藩領でありながら幕府の公用の仕事をしなければならず、また助郷村の百姓たち不満分子をうまく使う必要もあり、つねに中間管理職的な悩みがつきまとっていた。
 
 当時の牛久地方の農村は、過酷な藩の徴収に年貢を納めきれず、耕地を捨てて村を出る農民が多く、荒れ果てた耕地が多かった。それだけに農民たちにとって年貢の負担は大きかったであろう。一方公用人馬の利用頻度は増える一方で、このような状況の中、問屋の麻屋治左衛門は定助郷の少なさを嘆き、数度にわたって助郷村の増加を幕府に願い出た。ちなみに、元文5年(1740)の取決めによると、牛久宿の定助郷村は7ヶ村、荒川沖宿3ヶ村となっていた。麻屋治左衛門の要求は認められ、加助郷村が増加されたのであるが、新たに加わった助郷村は牛久宿迄の距離が遠かったため、何かと難儀なことであった。この増助郷が問屋と助郷村の軋轢を生み、やがて牛久一揆という農民の反乱へと発展するのである。