牛久一揆
概要
江戸と水戸を結ぶ水戸街道のほぼ中間に第九宿である牛久宿(牛久市)と第十宿の荒川沖宿(土浦市)がある。この両宿場町を背景に貧窮した農民たちの反乱、助郷一揆が起きる。世に言う牛久助郷一揆で、後世でも自由民権の先駆的なものと位置付けられている。
文化元年(1804)10月、女化稲荷を本陣として、信太郡(現在の竜ヶ崎市)河内(現在の牛久市及びつくばの一部)両郡の55か村の農民が女化原に集合し、一揆に立ち上がった。しかし幕府派遣の代官によってあっけなく鎮圧され、首謀者たちは拷問の末獄死となった。この一揆は女化稲荷を本陣としたため女化騒動とも言う。
背景
幕府のお膝元とも言うべき関東、とりわけ常陸国は度重なる大飢饉で農地は荒廃し、耕地を捨てて村を出る百姓が多かった。こうした人口の減少は更に荒地の増加に繋がり、当然のごとく年貢米にも難儀をきたすこととなる。
更に、常陸国には往来の激しい水戸街道があり、多くの村々は宿場あるいは助郷村として、国役、伝馬役、人足とさまざまな課役を加せられ、村々の難儀は更に増すことになる。
一揆の発端
江戸時代の重要な街道の宿場は、公用の荷物や書状を伝達するために定められた人馬の数を常設して置かなければならなかった。しかし次第に使用される人馬の数が増し、宿場だけでは定められた人馬を負担出来なくなり、宿場周辺の村々に定助郷や加助郷といった。助郷役が課せられた。
当時、牛久宿には周辺の7か村(勤高合計589石)が、荒川沖宿には周辺3か村(勤高合計598石)がそれぞれ助郷村としてして指定されていた。
しかし、通行の増加と度重なる災害で宿は次第に貧窮していった。天明の飢饉の際には、牛久宿と荒川沖宿は助郷村の増加を幕府へ要求したところ、10年に限って、34か村の加助郷村が割り当てられた。ところが新たに割り当てられた助郷は遠方で1日の課約に往復を含め3日も費やさなければならず、そこで人馬を提供する代わりに金銭で代納するようになり、宿では人馬請負業者が羽振りをきかすようになった。その人馬請負業者の代表格が名主和藤治である。和藤は私利私欲のため、約束の10年が過ぎても追加34か村の助郷の任務を解くどころか、阿見村の組頭権左衛門と牛久宿問屋麻屋治左衛門と謀って幕府に願い出、更に助郷を拡大しようとした。それを知った近隣の助郷村の間から3人を憎む声が高まった。