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牛久一揆
供養塔

県道48号線(土浦〜竜ヶ崎線)を土浦方面へ向かうと、その道は県道とは名ばかりで、寺子交差点(阿見町)を過ぎた辺りから道幅は極端に狭くなり、田園風景が広がり、その先の木々に覆われた一角に阿見町一区南交差点(十字路)がある。
その南東角に目立たないが小さな小屋が建っていて、その隣に阿見町教育委員会による案内板が添えてある。
小屋の中には1メートル足らずの石塔があり、その前には誰かの手によって花が添えられている。石塔は風化がひどく殆ど解読不可能だが、案内板によると「牛久助郷一揆道標」と大きく書かれ、『東、西、南、北、』の方角と、『じっこく(実穀)こいけ(小池)おかみ(岡見)りゅうがさき(竜ヶ崎)』の地名の他に、一揆の指導者3人の没年月日と戒名・俗名が刻まれていることが分かる。つまり、この塔は供養塔を兼ねた道しるべなのだ。
更に案内板によると、文政六年(1823)さきに打ちこわしを受けた麻屋家がこの道標を建立したと書いてある。皮肉にも、前述の牛久宿問屋麻屋治左衛門が建てたのである。
治左衛門はその後も宿問屋として牛久宿の代表格であった。何か心に帰するものがあったのだろう、3人の供養塔を建ててそれを祭った。それは農民感情を和らげる為だったのか、亡者に呪われた己の心に救いを求める為だったのか定かでないが、その後も勇七、吉十郎、兵右衛門3人の菩提を弔う「永代施餓鬼」を行うための万人講修業の許可を願い出たと言う。


時の流れと共に、3人の供養塔は風化してしまい、一方、一揆の舞台となった牛久宿の町並みは姿を変え、上町の行在所付近に僅か宿場の面影を偲ぶだけである。しかし、この事件は、その後の農民一揆の先駆的な位置づけとされ、また「牛久騒動女化日記」「女化原夢物語」等の書物によってその史実が記録されている。

農民が暮らしにくい時代を生きるために、エネルギーを爆発させ、そして死んでいった勇七、吉十郎、兵右衛門3人の事は郷土史の一頁としていつまでも語り継がれるであろう。供養塔に添えられた花々がその事を物語っている。

「阿見町一区、供養塔」画像を見る

頭取(一揆の首謀者)3人のプロフィール 
(出典 − 野分のあと(筑林書林) 用語解説集より)

勇七
小池村、42才、田畑五六十石、山林二三十町歩も所有し、筋目正しき有徳者、算筆弁舌に勝れ武芸を好んだと言う。

吉十郎
吉重郎とも書く、小池村、38才、算筆弁舌に勝れ武芸を好み、特に弓を曳いた。

兵右衛門
桂村、40才、村役人ではないが、なんらかの形で武家奉公したことがある。一揆指導者として他の二人より、積極性を持つ人物として伝えられている。