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古代の概要2

 7世紀、飛鳥時代になると、法律が整備され基本的な国造りがはじまる。大化改新後は大宝律令という律令制度が整い中央集権化が進んだ。そして全国を国・郡・里に分け、それぞれに国司・郡司・里長をおき、国司は中央の官僚を任命し派遣し、郡司にはその土地の有力者が任務に当たった。当然の事ながら、東国の牛久沼地方も律令の元に中央集権的な統治が行なわれた事は言うまでもない。
 その頃迄は足柄の坂より、東国はすべて我姫(あずま)の国と言われていて、常陸国と言う国名はなかった。それぞれ唯新治、筑波、茨城(うばらぎ)、那加、久慈、多珂の国と呼ばれていた。牛久沼周辺はその中の茨城の国に属していた。律令制により、常陸国が設置されると、牛久沼は常陸国河内郡に属すことになる。ただし東方は女化あたりから常陸国信太郡に属し、沼南端の地は下総国相馬郡に属していた。このように牛久沼は古代から複数の行政組織に囲まれて独自の風土を築きながら現在に至っている。

飛鳥時代に始まった律令制度は形を変えながら、奈良時代、平安時代と続く。その間、国司に任じられた官僚は貴族化し、私利私益だけをむさぼり続け、政治を疎かにしするようになった。当然の事ながら地方政治は乱れ、人々の生活は疲弊し治安も悪化していった。そのため郡司などの地方豪族は同族を中心とした武士団を結成し土地や農民を力で支配するようになる。また中央で思うように官職に就けなかった下級貴族が東国に下り地元の豪族と糾合し、武士団を結成する場合もあった。特に東国は中央政府の干渉を受けにくく、武士団の台頭は著しく、常陸国を中心に繰り広げられた平将門の乱は、このような背景の元に起きたのである。当然ながら牛久沼周辺もこの乱の戦場と化した。

 平将門の乱はやがて収拾されるのであるが、この乱が一つのきっかけとなり、朝廷の威信は失墜し、やがて武士中心の政治が行なわれるようになる。

竜ヶ崎の遺跡
つくば・中原遺跡
伊奈町・鎌田遺跡
茎崎・下大井遺跡
牛久・蛇喰古墳
こんなところに貝塚が
平将門の乱と国香の供養塔