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河童の碑

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建設迄のエピソード

昭和24年4月、犬田仰氏によって「芋銭碑」の建設が発案された。日本美術院の横山大観や小林巣居人に賛同を求め、概ね趣旨には賛同するものの、実際に動き出す状況にはならなかった。そのような時、芋銭の良き理解者の俳人西山泊雲(兵庫県丹波)と池田龍一(福島県医師)が具体的な建設に乗り出す。西山泊雲は計画の半ば亡くなり、子息の謙三が遺志を継ぐ。実質的な建設は池田龍一氏によって進められた。また、画家の吉井忠氏(池田氏の友人)が献身的な働をした。

碑の表面に河童の絵を、裏に芋銭さんの自筆略歴を入れること。碑の大きさは2メートルぐらい。と、具体的な案を池田氏が提案する。完成した碑には、池田氏を始め、それに拘わった人々の名前はどこにも見あたらない。河童の碑は心から芋銭を敬愛する人たちによって建てられたのであり、自分の名前を後世に残そうと言う気持ちはさらさら無かった。

吉井忠氏が碑の材料入手から彫刻、碑の運搬に至るいっさいを行った。碑の材料は東京の護国寺境内にあった根府川の自然石を求め、彫刻もそこで行なった。碑の中に描かれた河童の絵は芋銭晩年の作「河童図」の複製画」を相応の大きさに引き伸ばし、中村直人が監修、八柳恭次氏が二ヶ月要して彫り上げた。

除幕式は、昭和27年5月25日に挙行された。芋銭先生記念贈呈書」によると贈呈者は(池田龍一、犬田仰、飯野逸平、篠目篤、小林巣居人、西山謙三、吉井忠、加藤鎮雄)贈呈先(芋銭先生御奥様ほか御一家様」となり、つまり河童の碑は小川氏個人の所有物なのである。また除幕式にあたって、池田氏は「芋銭の芸術と人柄を考えると簡素なもので十分」と述べている。

正面は芋銭筆の河童座像と,右側に芋銭筆の「誰識古人画龍心」の画賛を刻入,