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小川芋銭70年の足跡
大正・昭和

大正元年(1912)44歳
「三愚集」成る。会津方面に旅をする。
大正2年(1913)45歳
「明治百俳家短冊帖」に俳画を描く。
大正3年(1914)46歳
「草汁画帖」頒布会を起こす。二女「桑子」生まれる。
松島、平泉金色堂、新潟方面へ旅をする、
大正4年(1915)47歳
山村暮鳥が来訪。平福百穂、川端龍子らと「珊瑚会」を結成し、この年第一回展を開催する。
会津及び阪神地方へと旅をする。
大正6年(1917)49歳
第3回珊瑚会展出品作「盤山肉案」が横山大観認められ,日本美術院同人となり日本画壇での地位が確立。
大正7年(1918)50歳
富山県を旅し徳万宝念寺に滞在し、兵庫県丹波の西山泊雲(高浜虚子の門人)を訪ね一週間滞在する。
大正8年(1919)51歳
第6回院展に「樹下石人談」を出品。
大正9年(1920)52歳
俳画堂から「三愚集」が刊行。東北・北海道の40日に及ぶ旅をし、一茶、良寛の旧跡も訪ねる。
大正10年(1921)53歳
クリーブランド美術館主催日本美術院展に「水虎とその眷属」「若葉に蒸される木精」出品 8回院展「山彦の谷」を出品。
新潟県杉村温泉を訪れ、磐梯山、桧原湖を回り会津に旅をする。
大正11年(1922)54歳
第9回院展に「沼4題」を出品。 高野詣でを行う。
大正12年(1923)55歳
茨城県美術展の顧問(審査員)となる。第10回院展に「水魅戯」を出品。東京三越で「芋銭・龍子十種新作展覧会」開催。
大正13年(1924)56歳
第11回院展に「夕風」「芦花浅水」を出品。
度々銚子海鹿島の篠目氏別荘に滞在し、そこを「潮光庵」と名付ける。
大正14年(1925)57歳
第12回院展に「野千燈」を出品。越後月岡温泉へ療養に赴く。
大正15年(1926)58歳
再び丹波を訪ね石像寺の一室を借りて9ヶ月間滞在する。滞在中は自由な日々を送る一方、地元の人々との交流を深める。
第13回院展に「丹陰霧海」を出品。
昭和2年(1927)59歳
茨城美術展覧会に「貯水池畔牛市の群」「野人逸楽」を出品。
昭和3年(1928)60歳
第15回院展に「荒園清秋」を出品。「芋銭子開七画冊」を刊行。牛久村役場新築落成式に配布の扇子に絵を描く。
昭和4年(1929)61歳
第16回院展に「怒涛」「止水」を出品。
昭和5年(1930)62歳
第17回院展に「積雨収」「太古香」を出品。
昭和7年(1932)64歳
第19回院展に「海島秋來」を出品。牛久郵便局の「芋銭書刻扁額」を刻む。
昭和8年(1933)65歳
本多錦吉郎の碑を同門下生と芝泉岳寺に建立。長男修一に男子誕生「耒太郎」と命名。
昭和9年(1934)66歳
第21回院展「反照」出品。三越で「芋銭子俳画展覧会」開催。東京崇文堂→「俳画の書き方」刊行。名古屋で「芋銭子小品展」。
昭和10年(1935)67歳
永らく逗留していた銚子の「潮光庵」を離れ牛久へ戻るも、長女の嫁ぎ先文村横須賀(現茨城県北相馬郡利根町)の弓削家へ寄寓。晩年の作品の多くをここで描く。
帝国美術院参与となる。第22回院展に「雲巒煙水」を出品。茨城美術展「霞ヶ浦」出品。修一長女「芙蓉美」と命名。
昭和11年(1936)68歳
第23回院展に「聴秋」を出品。外務省が買い上げる。
三男挙式のため神戸に出向く。その後城崎温泉で湯治し、出雲地方へと旅をし、京都を経て再び丹波に入り暫く滞在する。その後一時牛久に戻り長旅の静養をする。このころから下痢等に悩まされることが増える。
昭和12年(1937)69歳
第24回院展に「湖上迷樹」を出品。「古希記念新作展覧会」を開き,60余点を出品。
先文村横須賀から牛久へ帰る。
昭和13年(1938)70歳
「河童百図」を俳画堂より刊行。12月17日永眠,享年70歳,牛久村(現牛久市)城中の「得月院」に葬られる。

この芋銭の足跡は、牛久市生涯学習課制作「雲魚亭パンプレット」年表、牛久市図書館発刊・昔話「小川芋銭」、利根町教育委員会発行「小川芋銭展」年表を参考とし、「芋銭を学ぶ会」で学習した事柄を合せて編集しております。