平将門の乱と国香の供養塔

 

 

平国香につてい

上総介として関東に下向した平高望。その長男国香は、弟たちとともに父の跡を継ぎ、自らは常陸大掾・鎮守府将軍に就き、筑波郡、真壁郡、新治郡一帯の統治を任されることになる。
国香は、統治の本拠として常陸国明野に館を構えた。そこは、土地も肥え、水も豊富で、開墾には適した土地だった。国香は積極的に開墾を指揮し、時には自ら鍬を手にて、この地方を実り多い農産地に変えて、自家の力を蓄えていった。

国香は、平将門(国香の甥)との戦いに破れ、藤代川(現、龍ケ崎市)に没してしまうが、しかし、その後も一族は勢力を拡大し常陸一帯を治め、その子孫は、平清盛に代表される「平家」として全国で隆盛を極めるのである。

平国香の供養塔

承平5年(935年)、藤代川の戦いに没した平国香の供養塔。
藤代川、現在の龍ケ崎市川原代安楽寺付近で平国香は平将門軍と激しく戦う。この戦いにて国香は戦死したとも、自害したとも言われている。その後、国香を慕う何者かによってこの供養塔は建てられた。

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『関東中心平将門伝説の旅』によると、塔は砂岩でできており、相輪の上部が後補であるのと、笠すみの飾りが欠落しているほかは、完形に近いとされている。
 銘文は磨滅した為か無く、塔身の四面に浅削りで梵字のキリーク(阿弥陀)ほか、金剛界四方仏が刻まれているとされる。
 この塔の特徴である笠の軒反りは、鎌倉後期の五輪塔に似ていて、軒反りの段が細かいのは古い塔に多く、福島1、長野2例で関東ではほとんど見られない。存銘があるのは長野の永和2年(1376)だけだが、他の2例の形態から南北朝・室町期とされる。
 塔身の縁取りや基礎の2区の格狭間は、関東形式[永仁〜正安年間(1292〜1302)成立]を呈しており、古様式を残して鎌倉後期〜南北朝期に造立した考えられてる。  出典: 財団法人龍ヶ崎市文化振興事業団作成「龍ヶ崎市歴史散歩」

 


龍ヶ崎市川原代町、平国香の供養塔

供養塔に纏わる伝説

 平国香の墓(供養塔)には刀傷がついている。 
 昔ある人が、この墓石の付近を通ったら、石の影から亡霊が現れた。恐怖に慄きその亡霊を切りつけたところ、ふとその墓石を見ると、真新しい刀傷がついていたという。

 

平将門の乱

平将門は関東八平氏の基礎を築いた高望を祖父とし、良将を父とした、権威ある関東武士団の一族であった。しかし、将門は父の死後、都に上り、摂政藤原忠平に仕えたが、希望した仕官も出来ず失意のうちに故郷下総へ帰った。
将門は故郷でも一族とそりが合わず孤立した状態だった。
一方、嵯峨源氏の源護と平真樹の小規模な合戦が常陸国北西部(現、結城郡八千代町付近)でおきていた。最初は調停役だった将門も、戦いの勢いはそれを許さなかった。源護の軍事拠点拡大を嫌った将門は、平真樹に与して戦うのである。騎馬隊を組織した将門軍は強く、源護軍を次々と撃破し、退却させてししまう。この戦いで、源護の子が戦死、生きて帰れた者は少なかったと言う。
一旦、敗れた源護は姻戚関係(娘の嫁ぎ先)の平一族に援軍を願うのであるが、平国香(将門の伯父)のみが参戦する事となった。
戦いは再び激化し、将門は筑波・真壁・新治と常陸国の村々を撃破し、藤代川の戦いにて国香を打ち破る。やがて将門は他の武士団を加え常陸国の国府をおとし入れ、ここにいたって叛乱の証となった。やがて坂東を治めた将門は自ら新皇と称するに至った。これを承平天慶の乱という。
一方、父を殺された平貞盛(常陸掾に任命)は下野国押領使藤原秀郷と協力して、猿島郡岩井郷にて将門を滅ぼす。
余談だが、藤原秀郷はその後関東一円に勢力を拡大し、その一族の下河辺氏は龍ケ崎氏の祖となるのである。