馴馬城跡

 南北朝時代の古城で、県指定文化財(史跡)となっているが、ここが城址であったことを思わせるものは何も残っていない。ちょうど龍ヶ崎歴史民俗資料館の裏側にあたり、駐車場のところから、この城址に入ることが出来るが、ちょっと見ただけでは単なる雑木林にしか見えない。文化財なのだから、一般の人が見ても分かるように、その歴史や文化財としての価値を説明する案内板ぐらい有っても良いと思うのだが、そのような物はなにも無い。指定文化財とは一体何なんだろうかと、疑問に感じてしまう。皮肉なことに歴史民俗資料館の隣である。
 
 さて、馴柴城の歴史についての詳細は不明であるが、だいたい次の通である。
 竜ヶ崎地域において南北朝動乱期の早い時期に、北朝方に屋代城、南朝方に馴馬城があり、小天地を二分して相争っていた。城主が誰だったか不明であるが南朝方の拠点として存在していたことは確かだ。足利方の総大将高師冬(こうのもろふゆ)が大攻勢が始まると南朝方は各地で敗北を重ね、馴馬城も窮地に陥る。大宝城の下妻氏は春日顕国を迎え入れ必死に抵抗を続けていたが、落城とともに顕国は竜ヶ崎に落ち延び馴馬城に籠城する。ところが康永3=興国5(1344)年、宍戸荘(友部付近)の軍勢に攻められ、馴馬城は落城し春日顕国は再び大宝城に舞い戻ったという。この攻防を最後に竜ヶ崎地域における南北朝の動乱は終結した。

 城のかたちは、 稲敷台地の南端に伸びる3kmの台地上にあり、舌状台地の先端を堀切で区切るという類型的な構造をしている。ただ城域の東側と南西部がかなり削られていて、城跡であることを明瞭に示す遺構は少ない。全体としてめりはりのない城であったと考えられが、そのこと自体が南北朝時代の古い形を止めていると言える。

 


一見ただの雑木林に見受けられるが、龍ヶ崎地方における南北朝攻防の歴史を語る貴重な史跡である。


僅かに残る土塁