牛久城と由良氏

 

由良国繁と牛久城

岡見氏滅亡後、牛久領の領主として入城してきたのは、由良国繁であった。彼はもともと上野国金山城(群馬県太田市)の城主で、上野南東部の代表的な領主であった。ところが天正13年(1585)突然北条氏に居城の明渡しを要求され、これを拒否し小田原城に連行された。国繁の母赤井氏は家臣たちと共に金山城に篭城するも北条氏の軍事力の前に敗北す。その後国繁は桐生城(群馬県桐生市)へ退去させられた。以後国繁は北条氏の配下として不本意ながら秀吉に敵対することになるのである。
これより5年後の天正18年(1590)北条氏は秀吉によって滅亡する。国繁もこれに準じて滅亡なることを余儀なくされたのであったが、これを救ったのが母赤井氏である。
彼女は新田義貞の流れを汲む由良家が断絶することに忍びがたい思いを抱いていた。前田利家が上州上野へ入ったおり、赤井氏は孫貞繁を伴い豊臣方に馳せ参じ、不本意ながら北条方陣営として戦ったむねを伝え、由良家の存続を願い出る。利家はその願いを聞き入れ、秀吉へ上奏する事を約束する。その願いは秀吉に聞き届けられ、由良国繁はは常総の地、牛久城の城主となる。この時の前田利家の由良氏への返書を見ると、由良氏一族は新田貞義の後裔で名族であるため、惜しんで存続を認めるというものであり。これは赤井氏が由良氏と新田義貞との強いつながりを主張したためである。
 しかし由良氏の牛久城主の座は国繁一代限りであった。国繁没後、その領地は没収となり嫡子に相続権は許可されなかった。その真意は今も謎である。慶長六年(1601年)山口重政が由良氏に代わって封じられ明治維新の廃藩置県までこの地を領したが、城は持たず陣屋風の建物であったという。

 

国繁の母赤井氏

金山城主由良成繁の室、俗名は輝子という説があるが定かでない。天正6年に成繁没後は揺れ動く時勢の中で由良家を城主のごとく支える。
秀吉から由良家へ与えられた領地5,400余石は赤井氏へのものであった。彼女は領地を子の国繁へ譲り自らは得月停という隠居所を設け妙印尼となる。得月停はその後、妙印尼開山とする曹洞宗得月院となり現在に至っている。
得月院裏手にある妙院尼の墓、五輪塔

 

由良氏の領地

由良氏の石高は最初5,400石程であったが、加増され約7,000石となる、領地は以下の通りである。
岩崎村(茎崎町) 菅間村(茎崎町) 赤塚村(つくば市) 堀内村(つくば市)下原村(つくば市) 新牧田村(つくば市) 稲岡村(つくば) 中島村(つくば市) 牛久村(牛久市) 洒島村(牛久市) 岡見村(牛久市) 猪子村(牛久市) 東大和田村(牛久市) 東猯穴村(牛久村) 高岡村(伊奈町) 足高村(伊奈町) 野堀村(伊奈町) 狸穴村(伊奈町)
尚、その後由良氏の所領は二度にわたる公収という憂き目に遭い6,000石を失うが、東猯穴村だけは終生由良氏の領地として幕末まで続いた。現在のJRひたち野うしく駅付近である。
由良氏一族の墓は新田義貞の墓と共に竜ヶ崎市若柴金竜寺に今も残っている。由良氏の領地の大部分を引き継いだ牛久藩主山口氏の力の拡大にともない、牛久藩内新地にあった金竜寺は幕府の庇護のもとに牛久沼対岸の若柴へ移った。