つくば・中原遺跡

万葉の時代から歌枕として度々登場する筑波山、筑波嶺。その筑波山から南方に関東平野が広がり、さらに遠く霞ヶ浦を見渡すことが出来る。その場所にはつくば市があり、奈良・平安時代は常陸國河内郡の郡衛として栄え、現在でも筑波稲敷台地の中心地である。またつくば市は学園都市として有名であり更には科学技術の中心として日本国内はもとより世界の注目を集めている。
中原遺跡は河内郡衛のあったところと程近く、その役割として、「常陸風土記」で欠落している河内郡の様相を知る上で重要な手がかりとして注目が集まっている。

遺跡概要

中原遺跡は筑波学園都市中心部より僅か東に2キロほどで、花室川左岸の低地を望む台地上、標高24〜25mに位置している。現在の住所でつくば市村岡で、南西側から北東側には、谷津が細長く入り込んでおり、現状は畑地及び山林となっている。
当遺跡は奈良・平安時代を中心とする、旧石器時代から江戸期までの複合遺跡で、総面積58000uの場所から、既に500軒を越す竪穴住居と、140棟もの掘立柱建物跡が発掘されている。また遺物も数多く出土し、中でも青磁、白磁は大変珍しく、律令期における中央との繋がりを示唆する重要な代物である。
当遺跡の調査は中根・金田地区特定地区整理事業に伴う発掘調査で、平成9年度から茨城県教育財団によって行われ、今回で3度目となる。


発掘作業中の中原遺跡全景

竪穴住居跡 505軒 (内2軒縄文、5軒古墳時代)
掘建柱建物後跡 140棟
土坑 2735基
地下式壙 1基
堀・溝 97条
旧石器集中地点 8ヶ所
ピット群 1基

旧石器時代の遺構・遺物


旧石器集中地点

ナイフ型石器

掻器

削器
一万年前の遺物と思われる、掻器、削器、ナイフや石の破片が出土している。河内郡菅田郷は奈良・平安時代に大きな集落が形成されるが、有史以前の太古の昔から人の営みがあったことが証明できた。
石片



縄文時代の遺構・遺物


竪穴住居
右上の窪みは土坑で、貯蔵庫と考えられる。

縄文土器

当遺跡の竪穴住居は大部分が平安時代のものであるが、2軒だけ縄文時代の竪穴住居が発掘された。
おそらく、旧石器時代に移り住んだ人達の子孫がそのまま縄文時代も居つづけたのであろう。


古墳時代の遺構・遺物


竪穴住居

当遺跡では古墳時代の遺構は5軒しか出土していない。
奈良・平安時代には河内郡の郡衛関連の集落として花開くのであるが、古墳時代は中央の手が届かな寒村であったことが想像出来る。
この竪穴から遺物は出土していないため、時代を特定する事が出来ないが、中央上部のカマドは、箱型が飛び出していて、古墳時代後期の特徴を持ったものである。

ミニチュア土器

高杯
占いや祭事に用いられたもの。




奈良・平安時代の遺構・遺物

当遺跡は旧石器時代からの複合遺跡であるが、発掘された505軒の竪穴住居のうち498軒は奈良・平安時代のものである。
律令制度の下で、大きな勢力がこの地に芽生え育まれ、やがて衰退していった。それは河内郡衛に関連した大きな集落が成立した事なのであるが、その過程は記録として残っていない。次々と出土される遺構・遺物がその謎を明かす大きな手がかりとなるかもしれない。

土  坑


平安時代の土坑

左写真の土坑から出土の墨書土器


貯蔵庫だったのか、ゴミ捨て場だったのか、それとも祭事として使われたのか.、不明であるが、この穴から右写真の墨書土器が出土した。
右上写真ではよく分からないので、赤外線撮影したもの。
「常陸國河内郡真幡郷戸主刑部龍?人」と書かれている。


竪穴住居その一


青磁

竪穴住居

白磁
上記写真の竪穴から重要な遺物が出土している。
左記写真の青磁・白磁で、これは中国、(唐の時代)越の国から持ち込まれた焼物である。
特に青磁は国内での出土例が約3000片しかなく、その過半数は大宰府のものであり、残り半数は平城京のものである。
常陸國の国府でなく、河内郡の郡衛でもないこの中原遺跡からこのような磁器が出土したことは謎であり、いずれにしても中央との深い繋がりを示唆する貴重な遺物である。


竪穴住居その二



竪穴住居

刻書土器
この竪穴住居から灰釉陶器、緑釉陶器、刻書土器、朱書土器、墨書土器、瓦などの遺物が出土している。
墨書土器や朱書土器及び瓦は、お寺で使用されたもので、300メートル先の九重廃寺跡(河内郡の郡寺)との関連性が考えられている。
また、瓦は本来お寺のものであるが、ここではカマド脇の補強材として使用されている。


 
          灰釉陶器



         灯明皿
お寺で使われたもので、右上の黒ずんだ部分が、油火で焼けた跡。杯の転用と考えられる

竪穴住居その三

壁面に柱跡が残る珍しい竪穴

左写真の竪穴の想像画
竪穴住居
特殊な竪穴住居であり、恐らく身分の高いお役人が住んで居たのであろう。


掘立柱建物跡

四面庇付掘立柱建物跡

四面庇付掘立柱建物は通常の集落では見ることが出来なく、郡衛の機能を持った特殊な施設であったと考えられる。、
掘立柱建物想像図

鍛治工房跡


鍛治工房跡

石製紡錘車

鍛治工房跡から右写真の石製紡錘車や砥石、硯及び土器破片が出土している。
また工房跡の隣に廃棄物を棄てたゴミ捨て場と考えられる施設がある。
当時の生活様式を知る上で貴重な手掛かりとなる。

総  括

当遺跡は旧石器時代から近世にかけての複合遺跡で、その中でも律令期のものが多く、器では鉄鉢形土師器、須恵器を初めとして灰釉・緑釉陶器、青磁、白磁などが発掘されている。その中で青磁、や白磁は破片とは云え、県内でも初めての発見であり、中央との繋がりを示唆する貴重な資料となっている
また、金属製品では、銅椀、刀子、鉄鏃、腰帯具、銀環、さらに、瓦や砥石、紡錘車、硯などが出土していて、当時の生活様式を顧みることが出来る。
当遺跡の所在する中原遺跡は、古代書に書かれた「和妙類聚抄」の河内郡の7つの郷の中の菅田郷で、欠落した風土記、河内郡菅田郷の様相を知る上での大きな手がかりになるであろう。
遺跡発掘調査は茨城県教育財団によってまだまだ続いている。
鉄鉢形須恵器(平安時代) 鉄鉢形土師器(平安時代)

参考文献
財団法人茨城県教育財団 発掘調査報告 中原遺跡