間宮林蔵(1780〜1844)言うまでもないが江戸後期の北方探検家である。この間宮林蔵が、常陸国筑波郡上平柳村(現在の伊奈町)の農民の子として生まれたのである。8才の頃は寺小屋へ通い、14才のころは隣村の海老原庄右衛門から算術を習ったという。農家としては比較的裕福だったのであろう。勉学心旺盛の林蔵は近くの岡堰の工事を見に行ったのであるが、見るだけでは飽き足らず、その工事に従事したことから、林蔵の人生は大きく変わった。幕府普請役下条吉之助に、数学的才能をみとめられ江戸に出る事となった。江戸では村上島之允に地理学をまなんだ。林蔵が20才になると村上島之允の従者として初めて蝦夷地に渡った。1799年(寛政11)の事である。翌年、函館において伊能忠敬に弟子入りし、測量術をまなんだ。 1803年(享和3)東蝦夷地、南千島の測量し、のち御雇同心格となる。1808年(文化5)には松田伝十郎とともに樺太を探検。樺太が離島であることをはじめて確かめたことにより、間宮林蔵と言う名前は不滅となる。樺太と大陸の間の狭い海峡をシーボルトが間宮海峡と名づけたため、現在も地図に名前がのこっている。その後は幕府役人として東北・伊豆諸島などの調査にあたった。晩年の林蔵は幕府隠密として働いただけに、この人の栄光に暗い影が付きまとう。シーボルト事件の密告者として彼の経歴に傷がついてしまった。いや、凍傷によって醜く爛れた彼の顔と比べれば、些細なことなのだろうか。北方 謙三著 「林蔵の貌」に登場するアウトロー的なヒーロー林蔵に深い感銘を受けるのであるが・・・・・。密告者林蔵。はたしてシーボルト事件の真相は如何なるものか。彼の名誉のために、歴史の真実のために、今も真相究明が続いているという。

岡堰
新岡堰が下流に出来て機能を失った旧岡堰の残骸。
間宮林蔵の業績を讃えた像は川の中の孤島に取り残されたままとなっている。

専称寺
伊奈町上平柳。小貝川の土手を降りると、田園が広がる。土手道を背後にして専称寺という古刹がある。間宮林蔵が幼少の頃、この寺でよく遊び、よく学んだと言われている。門をくぐって左手に林蔵の偉業を讃えた立派な顕彰記念碑が建っている。更に顕彰記念碑の裏側、小貝川の土手を背にして林蔵と両親の墓があった。

間宮林蔵と両親の墓
あの偉大なる間宮林蔵の墓にしては、ずいぶん庶民的である。 上平柳村の百姓として生まれた間宮林蔵は、運良く武士とっなって数々の名声と富を得るのであるが、死んでしまえばただの百姓だったという事か。実はこの墓は間宮林蔵が決死の樺太探検前に、自ら建てた墓で(写真左)、その隣に父母の墓もある。(写真右)墓の背後は小貝川の土手道である。
![]() |
![]() |
| 間宮林蔵の生家(復元) | 土間 |
間宮林蔵の生家、と言っても復元でされたものである。林蔵は安永9年(1780)年この家で生まれ15〜6歳までここで暮らしたと言われている。
百姓家らしく萱葺屋根に縁側付き。土間は広く、その奥に竈が置かれている。土間に面して板の間が二部屋あり、奥の方は掘りごたつが備えられている。全部で4部屋の間取りで、そのうち1間は畳の部屋となっている。当時の百姓家としては立派な方であろうか、現代風に言うとちょっと大型の3LDK言ったところであろう。

間宮林蔵記念館
生家の隣に鉄筋コンクリートの資料館が建っている。入場無料が嬉しい。間宮林蔵に関する資料がここに集結。

上平柳の風景
筑波郡上平柳村。こんな長閑な田園風景に囲まれたところで林蔵は育ったのである。いえ、当時は毎年のように襲ってくる水害に悩まされ、長閑さを感じるゆとりはなかったであろう。聡明な林蔵は幼少の頃から自分なりに水害から身を守る方法を考えていたのかもしれない。

水神宮
間宮林蔵の生家の直ぐ近くに水神宮があった。やはり水神に対する畏怖心からであろう。小貝川周辺には水天宮とか水神宮が多いが、その殆どが小さな祠である。ところがここの水神宮は格別立派な本殿が建っていた。もしかして林蔵のなせる業?