小川芋銭70年の足跡

明治元年(1968)0歳

牛久藩士小川賢勝と母栄(松山藩の首藤氏の娘)の長男として江戸赤坂溜池の牛久藩邸に生まれる。(2月18日)幼名不動太郎,後茂吉と改名。「この子は三か月位しか育つまい」と医者に言われるほどの虚弱体質であった。

明治 4年(1871)3歳  

廃藩置県により,旧藩地新治県河内郡城中村(現牛久市城中)に移住。父賢勝は農業を始める。

明治 8年(1875)7歳  

守谷村(現守谷市)の知人宅に一時寄寓する。

明治 9年(1876)8歳  

牛久村の塾、牛久学舎(のちに牛久小学校と改名)に入学し3年間学ぶ。授業は寺子屋式の難しい内容であったが、熱心な黒須加一郎お陰で優秀な成績で卒業。

明治12年(1879)11歳 

藤屋という小間物店で丁稚奉公として働く。仕事の辛さに堪えながら懸命に働く茂吉の姿を見た親戚が不憫に思い、叔母の上杉家に引き取られる。

明治13年(1880)12歳

叔母の上杉家から近い桜田小学校に入学。同校尋常科第3級後期を優秀な成績で卒業する。

明治14年(1881)13歳

櫻田小学校師範の導きで本多錦吉郎経営の画塾彰技堂に入り洋画を学ぶ。懸命に洋画の勉強をする一方、漢画系絵画に興味を示し、南画を志向が強くなる。

明治18年(1885)17歳

 彰技堂を終了。日本画家荒木寛友や抱朴斎と知り合い南画の手ほどきをうける。

明治19年(1886)18歳

自活を志し、以前お世話になった藤屋で住込みで働くものの、絵と仕事の両立が難しく、再び上杉家に戻り絵の独学を続ける。日本画家家地為也と知り合い,外人館の壁画描きに加わる。

明治24年(1891)23歳

以前から付き合いがあった改進党の尾崎行雄の推挙で、「朝野新聞」に客員として入社する。(定説は明治21年入社) 4月14号に画工小川茂吉として挿絵が掲載される。続いて5月23日号では、第三回内国勧業博覧会を描写したスケッチと短文が全面に掲載。これが芋銭の職業画家としての初仕事となる。

明治26年(1893)25歳

父の強い命令に従って、郷里牛久に戻り農事に励むが、体があまり丈夫でない芋銭にとって農作業は辛い仕事であった。その農作業の合間をみては田園風景や農夫の絵をかいたり、絵に対する情熱は募る一方であった。

明治28年(1895)27歳

同じ村で農業を営む黒須巳之助の次女こう(18歳)と結婚。こうは人柄がやさしく真面目で、強い意志を持っ女性であり、仕事熱心であったため、その後の芋銭の創作活動の糧となる。

明治29年(1896)28歳

水戸で発行されていた「茨城日報」に漫画を投稿。作品は渡辺鼓堂の目にとまり採用される。
長女「はな」生まれる。

明治30年(1897)29歳

「牛里」の号で俳句を始める。

明治33年(1900)32歳

取手の句会「水月会」に入会。「牛里」の名で句作し、水戸の新聞に漫画とともに俳句が載るようになる。

明治34年(1901)33歳

雑誌「文芸界」に挿絵を描く。

明治35年(1902)34歳

長男「修一」生まれる。

明治37年(1904)36歳

幸徳秋水らが主宰する週間「平民新聞」に漫画を描き始める。父「賢勝」65歳にて逝去。

明治38年(1905)37歳

週刊「直言」,月刊「光」に漫画を描く。
二男「洗二」生まれる。

明治39年(1906)38歳

母「栄」64歳にて逝去。

明治40年(1907)39歳

「東亜新報」同人として招かれ上京。

明治41年(1908)40歳

「草汁漫画」を日高有倫堂より刊行。杉田雨人、小杉未醒らが発刊に尽力する。続いて「茨城新聞」「国民新聞」「読売新聞」等に漫画を発表し、好評を得るようになる。

明治42年(1909)41歳

三男「知加良」生まれる。

明治43年(1910)42歳

「漫画百種」を日高有倫堂から刊行。これに31題の漫画掲載。俳誌「ホトトギス」表紙画・挿絵描く。

明治44年(1911)43歳

「芋銭未醒漫画展覧会」を東京と大阪の三越で開催する。大阪まで足を伸ばす。

大正元年(1912)44歳

「三愚集」成る。会津方面に旅をする。

大正2年(1913)45歳

「明治百俳家短冊帖」に俳画を描く。

大正3年(1914)46歳

「草汁画帖」頒布会を起こす。二女「桑子」生まれる。
松島、平泉金色堂、新潟方面へ旅をする、

大正4年(1915)47歳

山村暮鳥が来訪。平福百穂、川端龍子らと「珊瑚会」を結成し、この年第一回展を開催する。
会津及び阪神地方へと旅をする。

大正6年(1917)49歳

第3回珊瑚会展出品作「盤山肉案」が横山大観認められ,日本美術院同人となり日本画壇での地位が確立。

大正7年(1918)50歳

富山県を旅し徳万宝念寺に滞在し、兵庫県丹波の西山泊雲(高浜虚子の門人)を訪ね一週間滞在する。

大正8年(1919)51歳

第6回院展に「樹下石人談」を出品。

大正9年(1920)52歳

俳画堂から「三愚集」が刊行。東北・北海道の40日に及ぶ旅をし、一茶、良寛の旧跡も訪ねる。

大正10年(1921)53歳

クリーブランド美術館主催日本美術院展に「水虎とその眷属」「若葉に蒸される木精」出品 8回院展「山彦の谷」を出品。
新潟県杉村温泉を訪れ、磐梯山、桧原湖を回り会津に旅をする。

大正11年(1922)54歳

第9回院展に「沼4題」を出品。 高野詣でを行う。

大正12年(1923)55歳

茨城県美術展の顧問(審査員)となる。第10回院展に「水魅戯」を出品。東京三越で「芋銭・龍子十種新作展覧会」開催。

大正13年(1924)56歳

第11回院展に「夕風」「芦花浅水」を出品。
度々銚子海鹿島の篠目氏別荘に滞在し、そこを「潮光庵」と名付ける。

大正14年(1925)57歳

第12回院展に「野千燈」を出品。越後月岡温泉へ療養に赴く。

大正15年(1926)58歳

再び丹波を訪ね石像寺の一室を借りて9ヶ月間滞在する。滞在中は自由な日々を送る一方、地元の人々との交流を深める。
第13回院展に「丹陰霧海」を出品。

昭和2年(1927)59歳

茨城美術展覧会に「貯水池畔牛市の群」「野人逸楽」を出品。

昭和3年(1928)60歳

第15回院展に「荒園清秋」を出品。「芋銭子開七画冊」を刊行。牛久村役場新築落成式に配布の扇子に絵を描く。

昭和4年(1929)61歳

第16回院展に「怒涛」「止水」を出品。

昭和5年(1930)62歳

第17回院展に「積雨収」「太古香」を出品。

昭和7年(1932)64歳

第19回院展に「海島秋來」を出品。牛久郵便局の「芋銭書刻扁額」を刻む。

昭和8年(1933)65歳

本多錦吉郎の碑を同門下生と芝泉岳寺に建立。長男修一に男子誕生「耒太郎」と命名。

昭和9年(1934)66歳

第21回院展「反照」出品。三越で「芋銭子俳画展覧会」開催。東京崇文堂→「俳画の書き方」刊行。名古屋で「芋銭子小品展」。

昭和10年(1935)67歳

永らく逗留していた銚子の「潮光庵」を離れ牛久へ戻るも、長女の嫁ぎ先文村横須賀(現茨城県北相馬郡利根町)の弓削家へ寄寓。晩年の作品の多くをここで描く。
帝国美術院参与となる。第22回院展に「雲巒煙水」を出品。茨城美術展「霞ヶ浦」出品。修一長女「芙蓉美」と命名。

昭和11年(1936)68歳

第23回院展に「聴秋」を出品。外務省が買い上げる。
三男挙式のため神戸に出向く。その後城崎温泉で湯治し、出雲地方へと旅をし、京都を経て再び丹波に入り暫く滞在する。その後一時牛久に戻り長旅の静養をする。このころから下痢等に悩まされることが増える。

昭和12年(1937)69歳

第24回院展に「湖上迷樹」を出品。「古希記念新作展覧会」を開き,60余点を出品。
先文村横須賀から牛久へ帰る。

昭和13年(1938)70歳

「河童百図」を俳画堂より刊行。12月17日永眠,享年70歳,牛久村(現牛久市)城中の「得月院」に葬られる。

 


この芋銭の足跡は、牛久市生涯学習課制作「雲魚亭パンプレット」年表、牛久市図書館発刊・昔話「小川芋銭」、利根町教育委員会発行「小川芋銭展」年表を参考とし、「芋銭を学ぶ会」で学習した事柄を合せて編集しております。