牛久城跡

 

 

戦国の山城

戦国の山城は日本全国いたる所にあります。その数三万とも四万とも云われている。
戦国時代、大名や有力豪族はこぞって見晴らしのきく良き地を選び、山城を築いた。一般的に山城は頂上部やその周りに全平地を設け曲輪とし、周囲に土塁や空堀を巡らし、山腹には竪堀や堀切を設け敵の侵入を防ぐ軍事基地を成したのである。平野部では地形的に山城が築けないので、平地に小高い丘を築き平山城とした。牛久沼周辺の山城は沼を中心に小高い丘が多く、これらの自然な丘を利用して築いた平山城が大部分である。
その時代から450年程が経過した今日、日本各地の多くの山城は、人々に知られる事も無く、古木や竹薮に覆われ、歴史の片隅に埋もれようとしている。

私たちの裏山や貴方の隣りの山が、かつて栄華を誇った山城であるかもしれない。仮に空堀や土塁を見たとしても、それが戦国の山城跡と気がつく人は少ないであろう。

岡見氏と築城

牛久市民及びその周辺に在住の方ならご存知であろう岡見という地名、竜ヶ崎から土浦へ向かう県道の中間地点に所在するあの岡見です。あの岡見こそ岡見氏発祥の地である。つまり小田城主治久の次男が河内郡岡見村(現在の牛久市岡見)に封じられてからその地名を採り岡見氏としたのである。
時は戦国武田信玄や上杉謙信、織田信長や今川義元などが台頭し、群雄割拠著しい時代、 常総の地でも佐竹氏、結城氏、小田氏など豪族が勢力を誇っていた。岡見氏はその中の小田氏の分家である。
岡見城を拠点としていた岡見一族は次々と勢力を伸ばし治久の三男が牛久の地を固め牛久城主として登場したのが牛久岡見氏の最初であるが、築城はもっと後のことである。それは岡見弾正が河内
郡の中心地郡役所跡に築城したといわれ、年代は定かでない。けれど弾正は天正元年(1573)に小田氏春の旗下として佐竹勢と戦ったことが記されているのでそれ以前であろう。他説として那賀郡国井氏の八代目岡見頼勝(江戸崎城主土岐治頼の次男)が天文初年から永禄年間にかけて築城したともいわれているが、この時代の記録は曖昧である。

岡見弾正

岡見弾正はもともと小田氏春旗下の武将であった。早くから小田勢の先鋒として戦いに参加した。永禄12年(1569)小田氏春が兵一千人を率いて筑波東の小幡(八郷町)に出て柿岡(八郷)付近の侵攻を始め佐竹勢の太田三楽、梶原政影等と戦いを開始した時も,その先鋒となって戦った。

牛久城のかたち

牛久沼東岸に迫り出している舌状台地の先端に位置した平山城の形体をとった大規模な城郭で、本丸、二丸の館、その周りに土塁、空堀で固められた約3ヘクタールの本体部分と、北側に築造された広大な外郭部分で構成されたスケールの大きいい城郭であった。二の丸の断崖上から見ると沼の対岸に逆さ富士が望める景勝地であり、その頃は周囲一帯が沼地で自然の防濠となり、きわめて要害な地であったことが想像出来る。
牛久城における大規模な城郭の必要性は、おそらく理由の一つは牛久城下やその周辺に住む住民が戦火に晒された時の避難場所の確保の為と思われるが、もう一つの理由は井田、高城、豊島氏らが在番にやって来た時、彼らが在留する場所の確保の為と思われる。彼ら在番衆の寝泊りだけでなく、それに伴う食料や武器などを収納する倉庫を建てる為、広大な土地を要したのである。
牛久城跡本体部分全景
当時、水田部分迄湖水は達していた

牛久在番

北条氏対佐竹氏の対立の影で、岡見氏対多賀谷氏が代理戦争の如く対立していた。つまり北条氏は佐竹氏攻略の足掛かりに岡見氏は必要で、一方岡見氏は多賀谷氏に対抗する為北条氏の力が必要があった。やがてその関係は岡見氏にとっての北条氏の依存渡が強まり、牛久在番を置くことになる。つまり北条氏支配下の各藩は交代で牛久在番を置き警備にあたった。彼らの居住地が本丸北側を大きく占めていたのである。
大手門跡

大手門は、堀切りのほぼ中央に「喰違い虎口」と「桝形馬出し」を備えた厳重なものであった。牛久沼を見下ろす城中町の一角に市指定文化財として僅かに残って入る。


牛久市城中町に今も残る土塁跡