| 岡見氏は多賀谷氏への戦略的拠点として次々と支城を築き兵力を配置した。足高城(伊奈町)、東林寺城(牛久市)、矢田部城(つくば市)、板橋城(伊奈町)、若柴城(龍ケ崎市)などである。知行地として野掘(伊奈町)からくりかけ(つくば市)までの八十六の郷村を領していた。これらの知行地は主に西方、小野川流域から東西谷田川流域にかけて広く分布していた。 東には江戸崎城主.土岐氏が北には土浦の菅谷氏が、南には布川城の豊島氏がいた為、岡見氏の勢力は主に西へ伸びて行った。 |
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足高城址(伊奈町城中) |
東林寺城址(牛久市新地) |
| 栗林義長は幼名を竹松という、出生はさだかでないが、民間伝承では女化ケ原の狐の孫といわれている。 京の都で兵学を柳水軒白雲斎に学び、名前を柳水軒義長という名前をいただく。やがて出生地常陸の国に戻り、牛久の城主岡見氏の武将栗林左京亮の門をたたくと記録されているが、栗林左京亮は、もしかすると牛久支城の足高城の武将だったかもしれない。義長はその後栗林氏と養子縁組し栗林義長と名のる。 天正11年(1583年)14年頃のことである。幾多の戦いで頭角を顕わした義長は北条氏尭によって総大将を命じられる。総大将になった義長は、多賀谷水軍との戦いでは諸葛孔明のごとく火攻め計を考える。戦場は小貝川、当時は水量も多く川幅も広かったのであろう、水軍戦である。義長は夜明け前から味方の水軍を葦の中へ潜ませて敵の来るのを待ち伏せし、一方多賀谷の水軍は数十艘の舟を連ね、鉦や太鼓を打ち鳴らしながら川を下ってきた。義長は風を計算しチャンス到来とばかりに狼煙を上げさせ、一斉に襲いかかる。火矢を雨のごとく射かけ油壺を投げ込み敵は大混乱に陥いり多くの負傷者や戦死者を出し敗走し 義長軍は大勝利を得たのである。 さらに上総、下総で勢力をはっていた千葉頼胤は佐竹氏と共謀し北条方の小田氏、岡見氏を挟撃しようとしたが、義長はそれを見抜き、大軍を率いて下総地方に攻め入りこれを平定す。 佐竹勢に竜ヶ崎城を落とされ、江戸崎城も攻められた土岐伊予守は義長に援軍を求める。それに答えて直ちに軍を進め竜ヶ崎城を奪い返し、江戸崎城を救った。 こうして幾多の戦場で勝ち進んだ武将も病には勝てず、ついに天正15年(1587年)その生涯を閉じた。享年58才であった。没後岡見氏によって東林寺(牛久市新地)に葬られた。 栗林義長を失った岡見氏はやがて滅亡を迎えるのであるが、それはあまりにも急速な出来事であった。 |
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| 小田氏滅亡後はそれに変わって岡見氏が勢力を振るい、天正5〜6年ころ最盛期を向かえるが、つかの間の栄華であった。 下妻城主多賀谷重経は北条氏を破り、その勢いで矢田部、足高、牛久の諸城を攻め立てる。天正14年まず矢田部城落城、続いて足高城に襲いかかったが、足高城主岡見宗治は守備を固めて篭城、牛久、若柴の城主に援軍を求め善戦したが天正16年力尽きて落城し城を脱出し牛久城へ入る。その後宗治は牛久城主岡見治部大輔と力を合わせて戦ったっが、治部大輔は手兵五騎を従え、茎崎・高崎へ落ち延びる。一方宗治は土浦方面へ落ち延びる(死亡説あり)。こうして岡見氏の牛久城は終焉を迎えた。 |
| 岡見治部大輔はその後江戸崎に潜伏していたと伝えられているが定かでない。それからまもなく越前國に移り結城秀康に仕官して500石の知行を与えられる。彼は余生を越前で送り、元和3年(1617)その地で生涯を閉じた。 岡部宗治は牛久落城とともに死亡という説もあるが、一方暫らく土浦周辺に潜伏し、その後慶長6年(1601)に下総布川の松平信一が土浦城主になった時、これに仕えたという説もあり、ようするにその後の彼の足跡は明らかでない。 |
| 茎崎町史を調べていたら面白い記載事項があったので紹介します。多賀谷氏配下の野口豊前という武人が口頭でのべたものを役人が覚書として記録したものである。このような覚書は、己が褒賞を少しでも多く貰いたいが為、多少の偽りが含まれる場合が多く信憑性は無いが。しかし当時の戦国武士たちの心情や戦いの状況を理解する上で重要な記録である。現代語訳になっているがあしからず。 以下茎崎町史より原文のまま転記したものである。 天正十一年(1583)九月八日 |