旧小野瀬邸保存について

 






土岐氏の城下町、そして仙台領一万石
龍ケ崎は、戦国時代土岐氏が龍ケ崎城(現竜ケ崎二高)に入り、その支配20年間に、城下町として町並が整い、周辺の開発がすすみ飛躍的発展をみました。その後徳川領の一時期を経て仙台領となり、龍ケ崎奉行の代官が龍ケ崎村2200余石を中心に隣接領地を含め、仙台領1万石を支配しました。関東有数の穀倉地帯に位置する龍ケ崎は利根川水運の発達にともない江戸との中継地として早くから重要な位置を占め、各地から多くの商人が集まって活況を呈しました。横町は呉服商の大津屋、佐野屋、奈良屋、近江屋が並び「花の横町」といわれ、上町には油商を営む杉野市平、伊勢屋治兵衛、相模屋、長谷川家、大和屋源兵衛、呉服太物商の伊賀屋(岡嶋家)、干鰯、〆粕を商う小野瀬家(筆屋)などが店を構え、新町には藍製法を仙台藩に伝えた松田楽平がおりました。屋号から分かるように伊勢・伊賀・近江からの新興商人が指導権を握っていました。
龍ケ崎名物「龍ケ崎木綿」(龍場木綿)は江戸後期にその生産が盛んになり、幕末から明治にかて木綿買いで繁昌したのが上町辻の伊賀屋で、店の前には近隣農家や町内から持ち込まれた手織の木綿がうず高く積まれたといいます。明治に入っては、下町の「さぬまや」が木綿買いに成功し、龍ケ崎木綿の名は一段と高くなりました。灯油は菜種を絞った水油と綿実を絞った白油で、綿栽培の発遠は油商の昌をもたらしました。

千鰯商人小野瀬家、筆屋新助と筆屋忠兵衛
近世中期以降、自給肥料にかわり金肥が用いられ、とくに干鰯・〆粕などは綿作には欠かせない肥料で、この干鰯商人として産をなしたのが上町の小野瀬忠兵衛家です。初代は筑波の麓北条の人と伝えられ、すでに寛政年問(1790年代)には商いを始めていたようで、その子新助は若くして家督を経ぎ、筆墨、米殻を商い、天保年間(1830年代)30代で一代にして「巨金之富」を築きました。文久2年(1862)年には筆屋新助として上町天王社(八坂神杜)拝殿再建の7人の世話人に名を連ねて多額の寄進を行い、仙台藩御用達の12名の豪商にも小野瀬新助の名が見えます。新助はすでに弘化4年(1846)、長女に養子を迎え忠兵衛(2代)を襲名させ、早世した長男新吉の跡には孫娘に藤蔵河岸の回漕問屋から養子を迎えました。明治27年発行の『城南四郡名家揃』には「絞油製造業、肥料・塩・衡器販売所筆屋小野瀬忠兵衛(3代)」と「和漢洋書籍・酒類・肥料販売筆屋小野瀬謙次郎」(小野瀬昇氏曾祖父)がそれぞれ筆屋として肩を並べています。。

「龍ケ崎の筆忠」
3代忠兵衛は明拾39年、龍崎農商銀行の創立発起人に、のち頭取、4代忠兵衛は肥料・塩元捌,度量衡販売に加え、スタンダード石油代理店となり「龍ケ崎の筆忠」として知られ、龍崎農商銀行が五十銀行(常陽銀行の前身)と合併するや同行取締役となり、5代忠兵衛は戦後衆議院議員をつとめ、龍ケ崎の発展のため尽くしました。
今上町に残る小野瀬忠兵衛邸の道路に面する店舖は4代忠兵衛による大正13年建築(棟梁天野源吉)で龍ケ崎地方の経済発展の歴史を伝える価値ある建造物です。なお弘化3年(1845)の「本屋敷普請帳」、安敏6年(1859)、文久2年(1862)の「普請入用帳」が残されているのをみると何回かの改築が行われてきたと思われます。

 

 





(1)平面関係について  小野瀬家は町屋棟を中心に住居棟がL字型に配置されています。
 町屋棟は、
木造2階建て:間口約9.1m(約5間)×奥行き約5.5m(約3間)
通り側住居棟は木造2階建て:間口約16.4m(約9間)×奥行き約5.5m(約3間)
背面側住居は木造平屋:間口約17.3m(約9.5間)×奥行き約5.5m(約3間)

(2)外観について  町屋棟は木造出し桁造りで、欅材を多く用い、高い2階建ての典型的大正期〜昭和初期の町屋作り建築の特徴を良く備え、質も高く、豪商の商う町屋建築の印象を受けます。住居棟外観からは、桁から下の壁を押縁下見板張にし、それ以上の壁を漆喰塗りにする同期の伝統的和風住宅の特徴を良く備えています。

(3)町屋棟および住居棟内部について  町屋棟室内は通常の町屋に比べて天井高は高く、また、室内中央部には約45cm(約1.5尺)近くの立派な大黒柱があります。これ程の大黒柱は他に類を見ません。
 住居棟には、意を凝らした床の間付きの座敷が3室(その1〜その3)あります。
その1 通り側住居棟の奥座敷の床の間には二重の落掛(おとしがけ)を付け、駆け込み書院との境には2本の竹の袖柱を建て付け、床は45cm程の浅い置き床式で、袖壁には新趣の潜り(もぐり)があり、数寄屋造り的趣向を思わせます。

その2 同棟の2階にも新趣の座敷があります。この座敷の床の間は、浅い踏み込み床で、落掛には方竹(ほうだけ)を用い、床脇は簡略な釣棚と通し板の数奇屋的座敷であります。

その3 町屋棟2階に10帖の座敷があり、1間の床の間と1間の天袋付き違い棚と半間幅の狭い書院棚があります。この座敷には長押(なげし)が廻され、書院造りの体裁を持ち、他の2室の座敷の中では最も格の高い客室の扱いと思われます。
 全体に建築普請は仕事が丁寧で、欅材を多く用い、町屋棟部分が公的な施設と見られ、座敷の質も高く感じられます。住居部分には数奇屋的意匠を凝らした部屋が多く見られます。町屋棟が「行」的空間であるならば住居部分は「草」的空間と言えます。
総 括  以上のように、代々の小野瀬忠兵衛は龍ケ崎の発展にとって重要な役割を果たしてきました。その営みの本拠となった小野瀬邸は、龍ケ崎市の発展の筋書きの中でその証として、記念的位置を占めるランドマーク的なものであります。その証を留めることによって、市民はこの建築を通じ町の歴史を知り、そのことが市民の土地に対する愛着と誇りを生み出し、それが町づくりのエネルギーとなるものであります。これらの証を消去したならば、それは町の筋書きの重要な証の忘却となり、町の誇りのランドマークを失わせることになります。それは龍ケ崎市にとって大きな損失となることは疑いありません。
 また、小野瀬邸の建築は、大正期〜昭和初期町屋建築と和風住居建築の特徴を備え、全国的視点から見てもその質は高いと言えます。従って、何らかの形で文化財の指定を受けられる質を備える歴史的建造物と見られますので、市のために、そして市民のために、小野瀬忠兵衛邸の保存と有効な活用を強く求めるものであります。

 

 





平成14年 5月

諸事情により、民間の手に渡り取り壊される恐れが生じ、行政へに買取り等のお願いをするとともに、市民有志によって保存のための署名活動が始まる。

平成14年 6月14日

11000余名の署名を添えて、串田龍ヶ崎市長へ要望書を提出。しかし財政難の理由で現時点で取得することが困難である旨の回答をいただく。

平成14年10月12日

小野瀬邸保存への願いは市民の会設立へと発展し、「龍ケ崎の価値ある建造物を保存する市民の会」が発足し、多くの市民の参加を呼びかける。

平成14年10月21日

市長に対し改めて、「龍ヶ崎の町のなりわいを語る歴史的建造物小野瀬邸の保存に関する要望書」を提出するが、結局、小野瀬邸は結局競売にかけられることになる。
要望書に対する市の回答には「回遊性創出事業化(*)に向けてさらに合意形成を図る必要がある」こと、「英知を絞り、最善策を見いだしたいと考えている」ことが盛り込まれています。

(*)回遊性創出事業化
平成14年3月に策定された「龍ヶ崎中心市街地活性化基本計画」3っの重点プロジェクトの中に「街中ふれあい拠点づくりプロジェクト」があります。このプロジェクトは「多くの人々を集めるための拠点づくり」「拠点周辺の界隈づくり」の2本柱で構成されています。その「拠点施設周辺の界隈づくり」に回遊性創出事業が位置付けられています。そこには、路地を活用した歩行者空間の整備とそのネットワーク化、歴史的建造物の保全と来術者への開放がうたわれています。

平成14年11月21日

龍ヶ崎市在住の菅井氏が落札。

平成15年1月18日・19日

落札された菅井氏の協力を得て小野瀬邸の見学会が行われる。2日間で約30名の方が集まり、部屋の隅々や庭、蔵まで興味深く見ていただき、建物の有功利用等についての、アンケートのお願いをする。

平成15年1月28日

市教育委員会に、旧小野瀬邸の登録文化財申請要望書提出

平成15年2月17日 平成15年3月3日・5日

登録文化財申請の為の下見調査が行われる。

平成15年3月28日〜30日

旧小野瀬邸写真撮影会を開催し、市民に公開する。
   以後、定期的にイベント等開催する。

平成15年11月21日

   旧小野瀬邸 登録有形文化財に登録

 

 

 

当会の今後の方針として、市・商工会、さらにオーナーの菅井氏と協議をしながら保存活用に向けた学習会を開くとともに、市民の皆様にも理解していただくために、イベント等を開催し広報活動を推し進める。

 

 

 

 

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旧小野瀬邸

 

普段の小野瀬邸の佇まい 正面入り口

 

他に類をみない太い梁と大黒柱