龍ヶ崎の歴史
古 代
旧石器時代(BC8000年以前)
稲敷台地はこの頃の洪積世に形成されたと考えられる標高20〜27mの高台で、特に、竜ヶ崎ニュータウン、若柴町はいたる所に浸食谷が刻まれて複雑な地形をしている。地質は成田層、成田砂礫層を基盤とし、その上に常総粘土層、関東ローム層が堆積している。
龍ヶ崎地方にこの頃から人が住みはじめたと考えられる。
遺跡 沖餅遺跡(竜ヶ崎ニュータウン小柴)
縄文時代(BC8000年〜BC300年)
縄文海進によって、陸地が狭まる。この当時の龍ヶ崎地方は周囲が入り江に囲まれていて、人々は狩猟漁猟によって生活を営んでいてた。現在の平野部から牛久沼にかけては海底だった。海が近いために、製塩も行なわれていたと考えられる。
遺跡 赤松遺跡(竜ヶ崎ニュータウン松葉) 廻り地A遺跡(竜ヶ崎ニュータウン中根台)他
弥生時代(BC300年〜AD300年)
縄文時代後期よりわずかづつ地球の寒冷化が始まり、それに伴う海退現象によって沖積平野が形成された。龍ヶ崎地方に於いては、古鬼怒川と小貝川によって形成された沖積平野(標高3〜6m)で、ほぼ、今日のものと同じ地形が成立したと考えられる。
さらに渡来人によって稲作が伝授され急速に人口が増えた。それが弥生時代である。龍ヶ崎地方の平野部に於いても、この頃から稲作が始まったと考えられる。
遺跡 屋代A・B遺跡、外八代遺跡(竜ヶ崎ニュータウン八代) その他
古墳時代(AD300年〜AD600年)
稲作農耕によって共同作業という部落意識が目覚め、そのため強い指導者が現れる始める。そして原始的な政治組織が出現し、龍ヶ崎地方にも小規模な部落国家が成立した。
この頃から権力者たちは墳墓を作り始めた。現在それらの痕跡が古墳という形でいたるところの遺跡から発掘されている。
遺跡 桜山古墳(長峰町) 愛宕山古墳(根町) その他
中 世
奈良時代(710〜794)
平安時代(794〜1192)
律令国家、王朝国家の下に龍ヶ崎の東方は常陸国信太郡に、西方は常陸国河内郡に属していた。荘園制の時代で、龍ヶ崎地方でも荘園制の下に開墾が進み、多くの人々は農奴として働いた。荘園を支配する豪族たちは土地を守るために次第に武士化してゆく。武士化した豪族は所領を巡って豪族間の争いや一族同士の争いが絶えなかった。特に当地では平将門の乱の影響で、多くの人々が疲弊したと考えられる。河原代には平将門の乱で亡くなった常陸国太守平国香の供養塔が祀られている。
鎌倉時代(1192〜1333)
源頼朝は有功の武将に領地を与えた。頼朝の近待として信任の厚かった下河辺政義は常陸国の石岡以南の地頭職となる。これにより、龍ヶ崎地方は下河辺氏が支配することとなる。
南北朝時代(1335〜1392)
龍ヶ崎地方においても南北朝動乱の縮図のごとく、南朝方の拠点に馴馬城、高井(貝原塚)城があり、北朝方に屋代城があって、小天地を二分しての争いが続いた。
近 世
室町時代(1393〜1573)
下河辺氏は鎌倉府において地方豪族としての確保たる地位を築き、領地の地名龍崎氏を名のる。ところが、幕府と鎌倉府の反目が増強し、関東菅領の足利持氏は関東に分国の支配権を確立しようと反抗を企てるが(永享の乱1438)失敗に終わり自殺する。龍崎氏は持氏の遺児と共に結城城に立て篭もったが力尽きて討ち死にする。
戦国時代・安土桃山時代(1477〜1603)
16世紀の中ごろになると、上杉氏の家臣であった土岐氏が台頭、永禄10(1567)年ごろには、土岐胤倫(たねとも)が龍ヶ崎城主となり、この地を治める。しかし、その繁栄も長くは続かず、天正18(1590)年には北条氏が豊臣奉書の小田原攻めで滅亡、北条氏の支配下に入っていた土岐一族も没落する。
土岐氏滅亡後、佐竹領となるが、慶長7(1602)年、佐竹氏が秋田転封となり、大久保石見守、代官・伊奈氏を経て、慶長11(1606)年に伊達政宗・仙台藩の飛地となる。
江戸時代(1603〜1867)
江戸幕府が開かれると250年以上にわたる平和と繁栄の時代が訪れ、治水や新田開発が進む。龍ヶ崎村は主に江戸仙台藩への食糧供給の中継基地として栄え、この地方の経済・文化の中心となる。また、徳川秀忠の時代には街道の整備が進み、若柴村は水戸街道の宿駅として繁栄する。
現在の市城にある村々の統治は、龍ヶ崎村は仙台藩領、若柴村は天領、その他の村は複数の旗本領に分れていた。
近 代
明 治(1867〜1912)
明治元(1868)年明治維新によって仙台藩龍ヶ崎領は龍ヶ崎藩となる。明治4(1871)年、廃藩置県によって、龍ヶ崎藩は龍ヶ崎県となる。更に同年に出された府県制改正により、諸県が整理統合され、まもなく龍ヶ崎は新治県に属することとなる。明治8(1875)年、新治県は廃止され、県域を拡大し現在の茨城県となる。
明治22(1888)年、茨城県令により、八代、羽原、別所、貝原塚、泉、薄倉の6ケ村を合わせ八原村。若柴、馴馬、佐貫、稗柄、小通幸谷、南中島、入地、稲荷新田、小柴新田、庄兵衛新田、門倉新田の11ケ村を合わせ馴柴村。大徳、宮渕、佐沼の3ケ村を合わせ大宮村。長峰、半田、塗戸、高作、板橋、大塚の6ケ村をあわせ長戸村。長沖、長沖新田、須藤堀、北方、羽黒、豊田の6ケ村を合わせ北文間村になる。尚、町村制施行により、龍ヶ崎は単独で龍ヶ崎町となる。
明治29(1896)年、平安時代より続いた信太郡、河内郡は廃止となり、龍ヶ崎町、八原村、馴柴村、大宮村、長門村、北文間村は稲敷郡に属することになる。明治32(1899)年には、龍ヶ崎鉄道株式会社が
設立され、翌年龍ヶ崎〜佐貫間が開通し、それと同時に常磐線佐貫駅が開業する。明治33(1898)年、小野瀬忠兵衛が発起人となって龍ヶ崎農商銀行が設立する。
大正(1912〜1926)
大正2(1913)年龍ヶ崎町に初めて電燈が灯る。大正5(1916)年、龍ヶ崎町にガスがひかれる。大正11(1936)年、龍ヶ崎町横町で舗装工事が始まる。まさに大正ロマンの時代であったが、一方民主主義運動と絡み合って農民運動が盛んになり、地主対小作人の争いが絶えない時代でもあった。
昭和(1926〜1989)
昭和16(1941)年太平洋戦争勃発。国民総力を挙げての食糧増産と軍需生産体制に入り、当地に於いても軍需工場が建設され、戦車砲弾等の製造に従事した。
戦後の農地改革を経て、商工業が発展。昭和29(1954)年3月、龍ヶ崎町・大宮村・八原村・長戸村・馴柴村・北文間村に北相馬郡川原代村を加え、8町村の合併による龍ヶ崎市が誕生。翌年高須村の一部が加わり現在の市域となる。昭和30年代、市庁舎・消防署・ごみ処理場などが作られ、工場誘致に関する条例が制定されるなど都市としての礎が築かれる。昭和39(1964)年には、東京オリンピックで地元出身の柔道の岡野功選手が金メダルに輝く。昭和40年代には、市営グラウンドやし尿処理場など都市基盤の整備が順調に進み、また、流通経済大学が開設するなど、学園都市としても発展をする。
昭和50(1975)年代になると竜ヶ崎ニュータウンの建設が本格的に始まる。昭和60(1985)年、佐貫駅舎が新築され、県道千葉龍ヶ崎線、土浦龍ヶ崎線が開通するなど交通面での整備が進みむ。また、文化会飴・中央図書館、地区公民館・歴史民俗資料館など文化・教育施設も充実する。
平成(1989〜 )
平成元(1989)年つくばの里工業団地が完成し、多くの企業が進出。平成11(1999)年ニュータウン北竜台に大型ショッピングセンターサプラが開業。平成14(2002)年総合運動公園たつのこアリーナが完成、龍ケ崎済生会病院が開業する等、市民生活の利便性がいっそう高まる。人口7万7000人を擁する住宅都市として発展を続けている。