昔、常陸国若柴村生まれで、一力長五郎安好という力士がいた。、彼の不運は日立での地方巡業の時だった、領主の若君が突然土俵の上に飛び出したので、長五郎は、危ない!と叫び、土俵にかけあがり、若君を抱き起こした。しかしこれが裏目で若君に対する暴力をふるったものとして、長五郎は処刑されてしまった。
長五郎は死を前にして「牛久沼に逆さ富士の映る美しい場所を選んで埋葬してくれ」と、遺言を残した。そして弟子たちによって若柴村富士ノ下の地に石碑を建て手厚く埋葬された。
若柴町富士の下、牛久沼近くに建つ長五郎の墓
本名は山崎安好で、常陸国若柴村富士ノ下(現在、茨城県竜ヶ崎市若柴町)の山崎仁右衛門の子として文化十二年(1815)に生まれる。
幕末期に江戸大相撲で活躍した力士で、藤ヶ峰から早房、そして一力と改名、嘉永ニ年(1849)十一月場所36才で新入幕を果し、安政六年(1859)には前頭筆頭にまで進んだ。
大関に強く、大物食いの長五郎といわれたが、巡業先にて病没した。安政六年八月二十五日の奥州一ノ関の巡業先と記録されている。
長五郎の死後、文久三年(1863)十一月に、若柴村富士ノ下に墓が建てられ現在も残っている。
一力長五郎錦絵
安政六年三月場所番付表/日本相撲協会所蔵
上段右から4番目前頭筆頭に長五郎の名前が確認できる
巡業先にて病没した一力の墓が岩手県一関市にもある。白馬山願成寺(曹洞宗)の山門のうしろに水子地蔵と並び、大小三基の墓が建っている。右が横綱秀ノ山、中央が地元出身の力士男山、そして左が一力長五郎の墓である。元々は市内の金森という好角家が、一関巡業中に他界した力士を自分の墓域内に埋葬供養したものであった。しかしその後金森家が無縁となり、願成寺住職が秀ノ山と一力の墓石を発見し現在地に移転埋葬したという。一力の墓は高さは二層の台石を入れて96cm。右面に「木村庄之助門人」と記されているため行事の墓と間違えられる事もある。
相撲史跡研究会 相撲の史跡 4 参照
向かって左から一力 男山 秀ノ山と並ぶ三基の墓石