記録映画「住井すゑ百歳の人間宣言」について
毎日映画コンクール 記録映画文化賞 受賞作品
制作 文エンタープライズ / 鈴木文夫 / 南 文憲 / 柏木秀之
監督 橘 祐典
撮影 南 文憲
録音 小林 賢
編集 鍋島 惇
音楽 小六禮次郎
ナレーター 西橋正泰
コディネーター 中橋真紀人
協力 抱樸舎
スタンダード・カラー(86分)
自主上映等、「住井すゑ百歳の人間宣言」に関する問い合わせは、文エンタープライズにお願いいたします。
〒102-0074 千代田区九段南4-6-1-904 Tel03-5212-1383
文エンタープライズ代表者の鈴木文夫氏のお話によると、今まで(H15.6.1現在)約50回ほどの上映会を行い、3万人ほどの方にこの映画を見ていただき、いずれも反響は上々だったとの事。これからの目標は上映会を積み重ね、観客動員100万人を目指すそうです。
お声が掛かれば、どこにでも参上するそうです。日本全国の教育関係者及び市民団体の皆様、上映会を企画してみませんか。
「住井すゑ百歳の人間宣言」製作中の鈴木氏(中央)とカメラマン 抱樸舎にて
解説
奈良の大和盆地に 1902年に生まれた住井すゑさんが、多感な少女時代を戦前に過ごし、秀れた文才を発揮しながら16才で上京し、俊英なる女性記者として活躍を始め、やがて、戦争という苦難の時代に、農民文学作家の犬田卯(しげる)と結婚、病弱な夫を支えつつ4人の子どもを育てながら、児童文学や農民文学を次々と発表していくたくましい歩みを描いています。映画化された住井作品の貴重な場面も幾つかが登場します。
また、大河小説「橋のない川」の長年に渡る執筆の中で、出会いと交流のあった文化人や、育て上げた息子・娘に、インタビューを行ない、思い出の数々や印象深い言葉など心あたたまる敬慕の辞を引き出し、住井さんの人物像を多彩な角度から掘り下げています。
圧巻は、講演会での住井さんの縦横無尽な語り口です。90才とは思えぬ力強い、しかもセンスとユーモアあふれる口調で、人権・平等・平和について、豊かで深遠な哲学と思想にもとづき、熱烈に語っている内容は、見る者の胸を改めて強く揺さぶります。
この記録映画は、20世紀を生きながら、人間と歴史を壮大な視野で見つめて、その思いを大河小説「橋のない川」に綴ってきた、偉大な文学者・思想家である住井すゑさんの、21世紀に遺した重要なメッセージと言えるでしょう。
「住井すゑ百歳の人間宣言」公式チラシより転載
製作にあたって
鈴木文夫 製作・鈴木映画代表僕がはじめて住井すゑという作家を意識したのは、映画『夜あけ朝あけ』 の上映に携わったときです。映画が作られ、16ミリフィルムを使って全国で上映が盛んにされたのですが、僕はまだそのとき、移動映写の仕事をやり始めたばかりで、技術的にも未熟でしたし、機械の性能も今ほど良くないときでした。当時は日活などでいくつも優れた作品が作られていましたが、そのなかでも『夜あけ朝あけ』 には、強烈な印象をもちました。とくに、映画のラストのほう、主人公の青年が都会に働きに出て、人ごみのなかを歩いている姿が、野外で上映されるニュースフィルムに写し出されるところが、とても心に残り、それで住井さんが書かれた原作を読んでみたんです。それが、住井さんとの最初の出会いです。
そのあと住井さんと直接お会いするようになるのですが、それは、住井さんの長女・かほるさんの夫・住夫さんが、茨城で映画サークルの活動をやっておられて、土浦か水戸での映写を頼まれ、その後、映画『橋のない川』の茨城牛久の上映の映写をまかされるようになったのが、きっかけですね。
当時は、電通とかの、いわゆる商業的な仕事が多かったのですが、もともと映写の仕事を始めたときは、いつかは映画を作ろうと。僕はもともと反戦少年でもあったので、そういうものをテーマにした映画の製作に参加したいと思って、父の跡を継いで映写技師の仕事を始めたんです。
電通などの仕事は、技術的に高いものが求められ、そのことは僕のその後の仕事に非常にプラスになったのですが、それだけではなく、ほんとうにいい作品をできるだけ隅々まで、より多くの人びとに届けたいと思い、一方で自主上映の仕事を始めました。その最初の作品が 『若者たち』 (山内久脚本、森川時久監督)です。
そしてその後に『橋のない川』 が映画化され、よし、この映画で本格的に自主上映の運動に踏み出そうと、それまではタクシーなどを使って機材を運んでいたのですが、お金を工面して思い切って車を買いました。いまでも思い出すのは、僕はまだ免許をとったばかりのペーパードライバーだったものですから、自動車のセールスマンに牛久まで運転して行ってもたって 『橋のない川』を写し、帰りは地元の実行委員の中島さんという方が運転して、住夫さんも同乗してくれて東京まで帰ってきた、ということもありました。そんなふうにふうに『橋にない川』は、僕のその後の人生の転機となった作品です。そして、それがきっかけとなって今の会社である鈴木映画を設立したのです。
その後は、なにか映画に関わることがある度に連絡を受けるようになり、とくに抱樸舎にミニシアターを作るときは、映写機の購入から設置、またフィルムの手配、映写まで、あらゆるお手伝いをさせていただきました。そう言えば、ベトナム戦争のとき、日本の映画人たちがベトナム映画『愛は17度線を越えて』を輸入公開しようとしたとき、どうしても資金が足りず、住井さんに借金のお願いに窺ったこともありました。そんなふうに、こちらからもいろいろとお願いしたこともありましたが、住井さんは、快く引き受けてくれました。
抱樸舎のミニシアターで映画を写すときはもちろんですが、公開学習会のときも会場がいつもいっぱいになるものですから、二階にテレビモニターを持ち込み、同時中継するということもしました。そのときに中継だけではもったいないということで、同時にビデオで収録することを始めたんです。それで生前の住井さんの映像が残るということになって、今回の映画製作に繋がって行ったわけです。
そういうことを10年ちかくやってきたころに、『橋のない川』の第七部が出版されることになり、その出版記念の会をやるということになりました。その話を住井さんとしていたとき、それ以前からときどきしていた、日本武道館で住井さんが講演をし、僕がマルチスライドと抱樸舎の映像上映することを持ち出したんです。
僕は以前、住井さんの絵本『ピーマン大王』をマルチスライド化してはどうかということを提案していたことがありました。住井さんが出した絵本の出版記念会のあとに、これはスライドにするといいですね、という話をしたんです。すると住井さんが、「それはいいわね」とおっしゃって、それで滝平二郎さんが絵を描いた『たなばたさま』をスライドにして見てもらったところ、そのとき地方から20人くらい女性が訪ねて来ていたのですが、その人たちの前で、「私がナレーションをやる」と言われたんです。「私なら、NHKのアナウンサーよりうまくやれる」と。それで、じゃあ、お願いしますということになった。でもその後、住井さんが第七部を書くということになって、その話は中断していたんです。
それがいよいよ七部の完成が近づいて、武道館で講演することが決まって、その会場で絵本のなかで住井さんがいちばん評価している『ピーマン大王』のスライドと「抱樸舎だより」をフィルムで撮って写つそうということになったんですね。武道館での講演会は、全国からほんとうにたくさんの方が集って大成功に終わりました。
翌年には、「九十一歳の人間宣言」と題した講演会を土浦で、93年には日比谷公会堂で「人間と文学を語る」と題した講演会を行ったのですが、そのお手伝いも少しさせていただきました。
住井さんは、武道館でもおっしゃっていますが、第八部の執筆を決意されていましたので、それを応援したいという思いから、95年に『橋のない川』の交響詩の制作を考え、活躍されている小六禮次郎さんに依瀬して、大河小説『橋のない川』の世界を交響詩に作り上げてもらいました。今回の映画にその演奏会の模様が写し出されていますが、これは、たくさんの全国の住井すゑファンの基金によって作られたものです。
住井さんが亡くなられる数日前、僕は、仕事で大阪の泉佐野にいました。するとそのとき、よる二晩つづけて夢に住井さんが出てきたんです。最初の晩は、どうして?と思ったのですが、住井さんの郷里と近い関西でしたので、だからかなと思ったんですね。するとまた次の日も、ものすごく鮮明に住井さんが夢に出てきたんです。なんだろう?と思いながら帰ってきたら、住井さんが亡くなられたということでした。
その日の夜のうちに牛久へ行き、翌日、住井さんと対面しました。そのとき思わず「ありがとうございました」という言葉が口をついて出てきました。ほんとうに、住井さん、きれいなお顔でしたね。
僕はあまり、自分の思うことをうまくしやべれないものですから、そういう僕に代わって、住井さんが僕の言いたいことを代弁してくれているんだと、いつも思っていましたので、どんどん住井さんに近づいて行ったわけです。
僕がまず心を動かされたのは、『夜あけ朝あけ』です。僕は東京で生れたのですが、愛知県で育って農業の経験があるんですね。そして『向い風』は戦争に行って戦死したはずの夫がやがて帰ってくるという話ですが、僕の田舎でもそういうことが実際ありました。そういう作品に描かれている、生きることや戦争にたいする考え方と、『橋のない川』に描かれている差別の問題ですね。僕が子どものころ、同級生の女の子が貧乏で自殺するということがありましたから。
子どものころから、戦争が嫌いだったことと、差別するということについて、ものすごく敏感だったものですから、住井さんの作品にとても共感したわけです。戦争で疎開して、被害をうけたという思いがあって、そうさせた悪い奴がいるんだ、それが天皇だと、ずっと思ってきたんですね。ですから、住井さんの天皇制にたいする発言に、ものすごく影響をうけました。いまでも天皇がテレビに出てきたりすると、すぐチャンネルを変えるんですが、住井さんはその問題の本質を明確に語っています。そこにすごく惹かれるわけです。住井さんは作家ですが、それだけではなく、哲学者であり、また科学者でもあると僕は思っています。そこが住井さんの魅力ですね。
僕は、住井さんのほんとうに穏やかな死に顔をはっきりと目にしましたが、いまだに、実は死んだ気がしないんですよね。この映画に登場する住井さんは、10年ほど前の住井さんですが、そこで語られていることは、10年たった今も、これから20年先、30年先も決して古びることのないものだと思います。ですから敢えて、この映画のタイトルを『百歳の人間宣言』としたわけですが、きっと皆さんもご覧になって、住井さんは今も生きてると思ってもらえるような作品に作り上げることができたと思っています。
映画を作るということは、ほんとうにお金のかかることなのですが、それを決意させたのは、武道館での講演会が終ったあと、住井さんと「今度は百歳のとき、東京ドームでやりましょう。映画を作って、それを持って全国を回りましょう」と話していたからです。住井さんは、ほんとうはもうこの世にはいませんが、住井さんとのそんな夢のような話を実現させるために、この映画を作りました。
僕が住井さんの作品に影響をうけ勇気をもらったように、この映画を見たことがきっかけとなって、住井文学に興味をもって読んでくれるようになれば、こんなにうれしいことはありませんね。
「住井すゑ百歳の人間宣言」パンフレットより転載