抱樸舎(ほうぼくしゃ)

 

抱樸舎とは

住井すゑが、執筆活動の拠点としていた自宅の敷地内に、「抱樸舎」が建てられている。かつては住井すゑを中心に学習会が開かれ、様々な人たちが「抱樸舎」を訪れた。
  主を失った今も、彼女の人間平等の思想を受け継ごうと「抱樸舎第1月曜学習会」が月に1度開かれている。
 そのほかにも、学習会の手で毎年6月第3日曜日に、彼女が好きだったシューベルトの「野ばら」に因み追悼会「野ばらの日」が開催されている。その日は日本全国から多くの住井ファンがここを訪れ、ありし日の住井すゑを偲んでいる。
 
 「抱樸舎第1月曜学習会」は名前の通り、毎月第1月曜日に行われている。以前は会場から溢れるほどの人たちが学習会へ参加していたが、現在では全員でテーブルを囲めるほどに参加者が減り、『橋のない川』などの読書会が地味ながら続けられている。

野ばらの日

「抱樸舎」とはどういう意味でしょうか。
 学習会のたびごとに問われます。“抱樸”の原典は「老子」の第19章で、老子哲学の根幹とも言うべきでしょうか。それだけに“抱樸”の二字を説明するだけでは、到底、その意をつくすことは不可能のように思われますが、しかし、どのように微に入り、細に亘って説明したところで、その真に迫ることが出来ないだろうと案じられるのが「老子」です。それで、いっそ、俗は俗なりに説明させていただいてもいいのではないか、それしかないのではないか‥‥と、無知のあつかましさをそのままに述べます次第。あしからず。

老子(第19章)
聖を絶ち知を棄つれば、民の利百倍す。
仁を絶ち義を棄つれば、民孝慈に復る。
巧を絶ち利を棄つれば、盗賊あることなし。
此の三者は以て文にして未だ足らずとなす。
故に属する所あらしめ、素を見し樸を抱き、私を少うし欲を寡らす。


 抱樸とは「素を見し樸を抱き」なのです。樸は“アラキ”です。アラキとは原木のこと、つまり山から伐り出されたままの原木です。
 ごろんところがされている原木は、一見、不恰好で、何の取柄もなさそうです。しかし原木――樸は手の施しようで、人間のすみか――家ともなれば、家具ともなります。或いは又精緻な工芸品ともなれば、より高度な芸術品ともなります。つまり樸(原木)は、多種多様の可能性を備えているわけです。
 人間もそのように、見かけは何のへんてつもないが、内に多種多様の可能性を備えている存在こそ価値があるのではないか?こういう意味で「抱樸舎」となりました。
 しかし、考えてみますと、素朴な心を抱きつづけることほど、人間にとって至難なわざはないようです。“より、豊かに”“より華やかに”それが人生の目標のように思われている世の中では、素朴はまるで貧しさそのもののように錯覚されがちですから。
 全く、苦労の多い世界になりました。老子が指摘してくれているように、聖知――仁義、巧利というような“文”(カザリ)をすてない限り、人間は“樸”を抱くことは出来ますまい。
 でも、もしかしたら昨今の世界の騒乱は、人間を“樸”に立ち遷らせるための、宇宙法則的な“運動”かもしれない‥‥などと、のんきな想いをひろげたりもしています。                                   

1990.4.15 住井すゑ  「続 地球の一角から」あとがきより