住井すゑに想いをよせて

天女と法則

中根 房子

 「住井すゑ」という、尊敬してやまない大先輩が逝かれて『きっちり』五年。当の本人がこの世に存在しないのに『生誕百年祭』をやろうとするのですから・・・。あの世とやらで苦笑しているお顛が見えるようです。
 「いいんじゃないの?この世で頑張ってくれたお礼に、私たちファンが、何かせずには居られない気持ちが『生誕百年祭』となったんですもの」片目をつぶって『チュッ』だね。などと、私のタマシイが勝手に語りかけては交信を楽しんでいるのです。
 ほんとうに、95年と半年もの人間をよくぞ、いのちが持ちこたえられたものよとその苦難の人生を思うと感心してしまいます。その数々の苦難の歴史を乗り越えられたからこその産み出す作品は豊かな確実な実りが約束されたといっても過言ではないでしょう。
 物腰の柔らかさ、おだやかさ…ユーモアがあって、何を言おうとギスギスした「ケン」がないし毒がないのだ。つねに弱い者の味方で、むしろ権力者というか強者の立場にある者には厳しく対したかと思うのです。
 たとえば、有名なお坊さんだったと記憶しているのですが色紙をたのまれていたらしい。何度も催促をされていたらしいのですが「自慢になるようでは…」と、先生は気のりしない様子なんです。家宝にしたいと念じる相手も、もう相当のお年らしいのですから「もう、さし上げたら・・・」などと進言したことを覚えているのですが、どうなったかしらねえ。
 思い出はたくさんあり過ぎるほどありますが、それはさておき、私の実父も、95才に1ケ月足らずして先生の半年後に人間を卒業しています。そうした二人の親たちの生きた社会的背景や考え方、体力、気力、生き方、叡知の数々を想うと舌を巻くばかり…。その時代を生きた人々は自分の親とも重なって感無量でした。
 私は代々の農家に生まれ育ち、農に育てられました。若い時は家を離れ都会で働いた体験もありますが、基本的に根っからの百姓です。誇り高い大地の人だと思っています。
 先生は、文学というのは、究極は美の追求だとおっしゃる。美の基準は生命だと…。生命にプラスするものが美の世界であり、最も直接的に生命に寄与する農業、農民を主題にすることになると・・・。
 めくりめく春夏秋冬の季節を、土に生かされた百姓なら知っています。肌で感じているはずです。もっとも現代では時代も変わってきてしまいましたが…。まっ昼間から電気を煌々と点けっ放しのスーパーや、夜中まで働く現代社会。夜遅くまで電気をつけて都会の机の上で、いくら考えたっていい考えは出ないと思うよねえ…。
 人間もこの自然界に生かされた『生き物』です。大自然の風や空気、太陽、大地にさらされないと潜在しているはずの叡知は開かないばかりか閉ざしてしまうでしょう。先生から法則と人為を教えて頂きました。自然は絶対の法則であり人為は必ず滅びる…と。そうそう。 調和・バランスのことも。色紙にも「土 もののいのち ここに創る」「空と雲のように」「土は心のふるさと」とか…。とにかく大自然の息吹の中で汗を流して働けば、それが、いのちに寄与することなのだから怖いものなし、マチガイがあろうはずがないのだと思っています。
 土に一番近くふれる職業が軽んぜられるようになってから世の中が狂ってきたと思えるのですが、いかがでしょうか。食べものを食べて生きている『生き物」であることを忘れがちの毎日ですね。この世の中は。
 風と一緒に牛久沼を駆け抜け、先生の屋敷の森で浄化されたエネルギーは家の中を揺さぶって通り抜けて行くのです。毎日、四季それぞれの変化を楽しみながら森の精たちが住みついている家です。いい作品が産まれる条件があります。その条件が用意されている選ばれた「人」だと思っています。
 先生は最後まで童顛でした。農作業を離れてからは脂肪ののった、どういう漢字だったかなあ、モチ肌の指の長い美しい手をしていました。意識が無くなってからお訪ねした時には、その美しい両の手を遊泳するがごとく交互に動かしていました。まるで天空を遊ぐ天女のようでした。
 「どこも悪くないんですよ」病院へ幾日か通った時にもしっかりとしたお声でしたが、ほんとうに、最後までふっくらとした美しいお顔でしたよ。
 先生は特に暑い暖房はお嫌いでした。火鉢ひとつの凛とした寒気の仕事部屋。コタツの暖も外から行くと寒いほどでしたからそれが現代の者とちがって健康に良かったのかも知れません。それでも晩年のお体に厳しい寒暖の差は、本人にも気づかれぬように冷暖房を配慮したという家族の偉大なる「愛」に支えられての「いのち」だったことを忘れてはならないと思うのです。いい健康も長命もすばらしい家族の愛があったればこそ…。家を守る長女のかほるさんとそのつれあいの住夫さん、ありがとうございました。お二人の手料理で、また軽く一杯いただきましょう。天女になった先生を偲んで、森の精たちとも一緒に・・・。

住井すゑ生誕100年記念集 「花風にひらく」より

『時に聴く』の三日間

森 和

 1988年6月28日、尊敬するお二人の対談の始まる日、私はひとり気負いこんで東京から住井すゑ先生のお供をした。迎えてくださったのは京都の一角、向日町の閑静なご自宅での寿岳文章先生。

 この対談は、その年の一月NHKのテレビ番組に出られた寿岳先生が「ダンテの神曲の天国その至高天に日本人ですわれる人があれば誰か」という問いに「それは水平杜宣言の起草者西光万吉です」と答えられたことから始まる。住井先生はその答えに痛く感動され、一度ゆっくりお話ししたい、と望まれたのだ。
 対談はほとんど一方的に住井先生のお話、寿岳先生の嬉しそうな「はあ、はあ、なるほど」という柏槌に終始。とたんに隣室から、章子先生の声「父さん、それじゃ負けてしまうよ。」思わずその場にいた人たちは噴きだしてしまった。スタッフの緊張は、そのひと声で和らぎ、以後和気藹々と話は進んだ。
 相変わらず住井先生が優勢だったのはいうまでもない。編集の担当者としては果たして、対談集が成り立つか不安だったが、楽しい、素晴しいひとときだったのは事実だ。ニ日間は夢のように過ぎていった。

 その夏、秋そして冬の日々を編集にかけた。
 テープを文章にしてみると発言は住井先生九、寿岳先生一。付箋をたくさん貼って第一稿を両先生にお届けする。住井先生は余り手が入らなかったが、寿岳先生は赤ペンの加筆で真っ赤な花園のよう…。お陰でバランスのとれた見事な対談の誕生である。
 原稿ができあがったとき、ご自分の企画が的を射たことを、「ほらね」と悪戯っぽく笑われた住井先生の表情が忘れられない。

 今、お二人はどこで、話の続きをしておられるのだろうか。

住井すゑ生誕100年記念集 「花風にひらく」より

九七年の二月のある日

かぐや姫

  97年の2月のある日、病院のベッドの上で、「死んだら地獄へ行くよ」と、先生は突然言われた。「どうして地獄なの?立派な仕事をしてきたのだから、先生は天国でしょ」と私…。すると「あのね、(この前死んだ)天皇は地獄へ墜ちていると思うの。だから後を追っていって、責任をとらせなくっちゃ」という答えが返ってきた。「そうか、そうだね。まだ許せないよね」…私はそう応じないわけにはいかなかった。死を目前に見据えながらの執念に、内心衝撃を受けていた。《作家魂》に触れたような気がした。『橋のない川』のモチーフが、まだここには激しく燃え盛っていたからだ。そして一旦、完結したはずの代表的長編を、二十年も経って続編を書き継ぎ始めた動機の強靭さが、あらためて分かったような気がした。
 入院期間中、病院が嫌いで、しきりに家に帰りたがった。ひと息に死ねず、寝ていなくてはならない自分に腹を立てているようでもあった。悔しかったのかもしれない。
 二週間あまりの入院生活の後、亡くなるまでの四か月、ずっとご自宅で過ごされた。先生はひどくくつろいだ様子で、殆ど要求らしい要求もせず穏やかな日々を過ごされたように思う。やはり先生には、病院のベッドよりご自分の書斎のベッドがふさわしかった。
  *    *    *    *    *    *    *   

 私はとても弱虫です。その私を「強く生きなければいけない」と無言で励まし、教えてくださった先生でした。
 そして、先生の思想の根っ子にあるのは幸徳秋水に寄せる思いを別格とすれば、あの「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」の思想だと私は思います。
 それにしても、もう少し先生の爪切りや肩叩きをしていたかったなあと思っています。

住井すゑ生誕100年記念集 「花風にひらく」より

散 歩

栗原 晶代

  「オオクワガタの幼虫500匹持ってるディダモン。パンチはありのようだなリダモン。一年の高橋ってこんなふうに言うんだよね。」「そうだよ。そんで走り方がおもしろいの。」ひろし君が両手を体の脇につけ、すごい勢いで走り出す。それを見て涼太君は大笑い。千秋 ちゃんは犬の綱を握って淡々と歩いている。犬を飼い始めてから六年、朝夕田園の畔道を歩いている。一昨年秋から週に一度子供達もいっしょに行くようになった。
 住宅街に囲まれたような田圃は一軒一反ぐらいの自家用米と思われる。家々で田の作り方がずいぶん違う。機械任せ農薬任せの田は整然としているが、土も稲も固そうだ。隣ではよくよく人が手を入れ薬を撒かずにいる稲がそよそよと風にそよいで美しい。私の思い込みだろうか。『住井先生どう思われますか。』散歩途中先生に問いかけていることが度々ある。それだけで心が清々してくる。
 年々合理化が進み、農業をする人がいなくなり田圃がどんどん荒れてゆく。それでも田圃の周囲に生物は多い。昨年春には子供達がいっしょだったせいか殊の外そのことを強く感じた。白鷺、用水路には鯉、オタマジャクシ、ザリガこ、タニシ。ひろし君はザリガニ取りの名人、泥の中に素早い動きを見てとると手を入れずにはいられないらしい。取ったザリガニは友達に惜しげもなくあげる。ビニール袋にいっぱいザリガニを入れて皆うれしそうだ。ザリガニ取りは夏まで続いた。夏の終わりにはトンボを沢山見た。秋になりバッタ、イナゴ、カマキリ。今は冬枯れ、用水路の水を廃材や古木で塞ぎ止めダムを造り、空地の背高い枯草の中にペニヤ板の切れ端を二枚ほど敷いて秘密基地。「入る時は玄関でおじゃましますと言ってね。」どこが玄関かと思えば、ツンツン立っている枯草の間に横に渡した枯枝が二本見えた。声掛けようかどうしようか迷って、私と犬は冬晴れの空見上げ立ち尽くしている。春になると子供達は三年生、私は五十、秋に犬は七歳、皆各々の時を生きている。

住井すゑ生誕100年記念集 「花風にひらく」より

「やきものはいいねえ」と住井さんは言った

小島 英一

 「やきものはいいねえー」
住井さんは言った。それまでの会話がとぎれて、何の前ぶれもなく、突然思い出したように、それでいて凛とした響きだった。
 「やきものはいいー」
 再び、はっきりと言った。住井さんのことだから、別の意味があるような気がして、「えッー」
 と聞き返す。何気ない会話のすみっこにこちらが試されているような気分にさせられる時がある。それはこれは単なる会話かな、テストされているのかな、そんな思いが巡る一瞬でもある。頭のよしあしや気がきく、きかないといった次元の問題ではない。いわば、粋か野暮かといった問題だと思う。こんな時だ。ボクが『住井さんは大和の人だなあ』と思うのは。
 こちらが思案に暮れているのを、見すかすように住井さんは言う。
 「やきものはいい。だって破片になっても人を感動させるもの」
 ポクも陶片が好きでいくつか持っているけど、どうも住井さんが言うこととは意味が違うような気がする。ポクら焼き物屋の陶片好きは完品に手が届かないからとか、土や釉など断面からの情報に期待するからであり、あまり『美』の対象として陶片を意識しないのが常だから。
 「子供の時にねぇ、小川の底で茶碗や皿のかけらがキラキラ光ってるの。水がゆらゆらゆれて、そのたびにかけらが輝いているのが、やきものっていいねぇ、かけらになっても美しいもの」
 住井さんは少女のような表情になっていた。

住井すゑ生誕100年記念集 「花風にひらく」より

肩をもみながら

藤巻 謙一

 今日も凝ってますね。特に左側が岩のようにがちがちになっています。
 商売ですか。ええ、世の中の不況を反映して、私の商売もかなり苦しいです。会社勤めの人の生活も苦しいようです。はじめはそんなはずじゃなかったのに「リストラ」が、いつの間にか「人減らし」や「解雇」という意味になってしまいました。人間から不安をとり除き、生活を安定させるのが経済活動の目的のはずなのに、いったいこれはどういうことでしょう。ものが足りないのではなく、あり過ぎるから苦しむなんて、変ですよね。不況っていうのは、経済の循環器障害みたいなものかも知れません。「金利」という異常増殖するガン細胞が、不平等をふくらませ、毒をまき散らし、もうあちこちで壊死(えし)が起こりつつあるんじゃないかと思います。「生き残りをかけた闘い」なんて言って、人間が人間を敵としなければならないなんて、まるで地獄のようですね。不況、人間不信、そして精神的荒廃に続くのは、たぶん戦争でしょう。政府はもう少しずつその準備を始めているようです。ヒノマルやキミガヨも整ったし、今は有事にそなえた法律とやらを作ろうとしていますから。有事って、戦争のことですよね。
 人の足をふき飛ばすために何百万個もの地雷を作って埋めたり、あたりの酸素を一瞬にして燃やしつくしてしまう爆弾を投げたり、一度にできるだけたくさん殺すための道具の研究開発にこれほどエネルギーを費やすなんて、まったく人間てやつはと、うんざりします。いっそ、早いこと絶滅してしまえばいいと思ったりもします。でも、私も60億の人間のうちの1匹である以上、それは無責任というものですよね。私の持つ60億分の1の発言権は、限り無くゼロに近いとしても、ゼロではないはずです。そして、自分の発言が世界史の動向に何の影響も与えないからと言ってあきらめたり絶望したりするのは、ひとことで言って、ごう慢な自己過信でしょう。また、世の中の問題の解決を他人にゆだねるのは、卑屈っていうものですよね。指導者と呼ばれる人たちも、世界史の流れの上に浮かぶアブクのような存在という点では、私たちとそれほどかわらないのじゃないかと思います。それどころか、もめ事や争いの種を、自分の保身のために利用しているやつもいます。
 人間を苦しめているのは、自然災害よりも、むしろ人間自身がつくり出した幻想のようです。合理性を失った伝統、全体主義、差別、貧困、戦争。こういう幻想とそれが生み出す破局から人間を解放すること。そのために、住井さんや犬田卯さんは、渾身の力を込めて作品を創り出したのですよね。
 肩が少しは楽になったでしょうか。抱樸舎を訪れるみんなに、少しずつマッサージしてもらうといいと思いますよ。では、今日はこのくらいで。

住井すゑ生誕100年記念集 「花風にひらく」より

「橋のない川」を未来へ

椿 陽子

 新聞で「クローン猫誕生」の記事を読んだ。人間の科学技術は、とうとう生命までつくりだしてしまった。この先どこへたどりつくのだろう、と思う。
 牛久沼のほとり抱樸舎の広い庭を住みかにしているネコたちがいる。どこからかやって来て、去年の春ここでお産をしたまっ自な母さんネコと仔ネコたち。ミケに茶トラとさまざまに十匹ほどいる。木々や草花の豊かな庭で、じゃれ合ったり、昼寝をしたりして日々をすごしているネコたち。もし自分たちのクローンが作られたことを理解することができたとしたら、人間への怒りの声をあげたにちがいない。
「ふざけるんじゃニャイ!」
 「橋のない川」六部・鵲(かささぎ)に、七重が猫のミミのお産に教えられたと、孝二に話す場面がある。生命は生命がけで産む生命があって、はじめてうまれてくることがわかった、と。そして私が人間であるかぎり、私が産むのは人間にきまっている、とも話す七重。こころ深くに残る場面である。生命あるものの感性を忘れないようにしたい、と思う。
 「今」こそ「橋のない川」を読みつないでゆこう。次の世代へ。そしてまた次の世代へと。

住井すゑ生誕100年記念集 「花風にひらく」より

すゑさんの光りに照らされて

久保田 時代

 このような機会を与えてくださったことに心から感謝します。
 すゑさんが亡くなられた1997年6月、そのころのわたしにとって《住井すゑ》の四文字は、本屋でこそ目にすれど、まだ実体を帯びてはいませんでした。初めて触れた作品は「橋のない川」で、21世紀になって間もないころのことです。タイミングに恵まれたのでしょうね。すゑさんの固い意思やいのちに対する眼差し、ハッと息を飲む美しい自然の描写など、とにかくこれまでにないほど心を動かされたのでした。シンプルでわかり易く、しなやかで力強く、筋が通っているので勇気を与えてくれます。そして、自分の生まれるよりずっと昔の風景なのに、なぜか恋しく懐かしく感じる不思議…。
 昨年秋、自分の30回目の誕生日を迎えるにあたって旅に出かけました。目的地は抱樸舎です。沈黙を破るのが勿体ないくらいに澄んだ静けさの中、そっと扉を開けて中を覗きこんだ瞬間、えも言われぬ感情におそわれ、突然涙が溢れてきたのですが、あのときの心の作用は一体何によるものだったのだろうかと、しばらく考えこむ日が続いていました。そんなあるとき、パール・バックの「大地」の中であのときの感覚に再び巡り会えたのです。あの涙は《すこやかな大地の霊》の仕業だったのだと信じています。
 わたしがすゑさんの存在を知ったとき、あなたは既にこの世の人ではありませんでした。しかし、出会って以来、物事の影かたちをいろいろな角度から浮き立たせる光りとなって、いまもなお心の中で輝き続けているのです。


 百歳の誕生日、おめでとうございます。  2002年1月7日

住井すゑ生誕100年記念集 「花風にひらく」より

野ばらの季節

市川 紀行

 月日は流れ、私たちは残る。でもそれは本当なのだろうか。あれから何年もすぎて、又めぐる6月。思えば常日頃のお元気な姿、衰えを知らない思想哲学から住井すゑはいつまでも死なないと誰もが考えていた。私もそのひとりである。95歳、先生の言葉によれば「時間切れ」の静かな最後であった。「大往生です」とご家族は言われる。きっとそうなのだと思う。その2週間ほど前にお見舞いしたとき先生はかすかに話して下さった。「3日ぶりに声を出した」とかほるさんが言われた。先生の眼は青く澄んでいた--。お通夜の静かな夜更け、先生のお顔は少し小さくて、美しい少女のように感じられた。そして繊細な手、長い指。いつも気品に溢れていた。
 かつて汗にまみれ土を打った手、闘いに握りしめた手、何千枚もの原稿を書いた手。私は先生の白い手に自分の手を重ねて最後の握手をさせて頂いた。私は枕元の机の上にある分厚い原稿用紙に目を奪われた。「橋のない川-第八部」と愛用のペンで記され、あとは空白。ついに表題以外に1行も書かれなかった名作の第8部は永遠にあらざりし終章となってしまった。感動的な第7部をうけて、武道館での「一万人集会」以来、みんなが待ちうけ、網走の場面はじめ先生の構想は着々と展開されていたのに――。
 私はときどき勝手に押しかけては晩ごはんをご馳走になった。そういうとき、お猪口一杯の日本酒を飲まれる。それは90歳をすぎても同じだった。その一杯を楽しまれるきれいな手の動きを鮮やかに思いだすことができる。「時間の前にすべては平等」と、様々なこと、身近なこと、抱樸舎を訪れる人たちのこと、認識や分析の仕方などを語られた。私たちの矛盾と妥協にみちた言い分にもにこやかに耳を傾けて下さった。人の命への愛と信頼と絶えることのない明晰な頭脳。
 高校の頃から可愛がって頂き、よく先生の書庫に入り込み、本を読ませて頂いた。今はもう古木のようになっている樹々の下に腰かけて見下ろせば、牛久沼が手の届く所にあって、その輝く水面を眺めては文学や詩に憧れの心を燃やし、既に著名であった先生のそばにいることのよろこびを感じていた。そして40年の歳月、住井すゑはもういない。いかに「人は時間の中に平等に生まれ、時間の中に平等に死んでいく」とはいえ、宇宙を流れる時間の現在を少しばかり止めたいと思う。先生は叱るだろうか。
 住井すゑの文学と思想哲学は、美しい表現、美意識とともに私たちに本当に「生きる」ことの勇気を与えつづける。「住井すゑ」はもういないが「住井すゑ」は未来そのものだ。
  人類の母性は
  人以上の人を生まず
  人以下の人を生まず
  めぐる6月、私たちは野ばらを心に抱きつづける。