雲魚亭パンフレット
慶応四年、江戸赤坂の牛久藩邸大目付小川伝右衛門賢勝の長男として生まれた。幼名は不動太郎、のち茂吉(しげきち)と改められた。若い頃は画塾彰技堂に入り洋画を学ぶとともに南画にも興味を示し独自の画風を身につける。スケッチ漫画を新聞に発表。俳雑「ホトトギス」などに挿絵や表紙を描くことによって知名度が上がり、やがて横山大観に認められ日本画壇に入る。
「河童の芋銭か芋銭の河童」と言われるぐらい、小川芋銭にとって、河童の絵は代名詞の如く思われているが、芋銭は松尾芭蕉の旅心への憧れから生涯旅を愛し、各地の山水や農村風景を描き、「仙境の画人」・「俗中の仙人」などともいわれている。
昭和十三年永眠、享年七十才、牛久市城中の得月院に眠る。
龍もかっぱも自然の不思議さのシンボルなんですよ。地球は水があるからすべてのものが生きている。芋銭先生は天地自然の不思議さ、水の不思議さを、かっぱにそして沼に描かれた地球の不思議さを芸術的に理解されたのでしょう。「一番程度の高いものは宇宙の法則だ。人間は宇宙の法則によって生かされている」という老子哲学が芋銭先生の絵に表現されています。(住井すゑ)
「小川芋銭ー聞き歩きい逸話集」より
芋銭の絵は初期の挿絵時代を除くと中国南宋時代の絵の技法南画である。それも哲学に裏付けされた南画というもので、絵の中には芋銭のメッセージが隠されている。そのメッセージを推理するには、老荘思想を知る必要があるという。しかし、私たち凡人がそれを理解することは至難の業であろう。幸いにも、芋銭の隣人であった住井すゑのこの言葉が、難解な絵の見方の紐を解いてくれる。
版権の関係で鮮明な画像をお見せできないのが残念です。
明治41年6月に出版の小川芋銭最初の本。明治37年から明治40年までに新聞紙上で発表された挿絵を中心に編集されたもの。その内容が反響を呼び、「東京毎日新聞」「平民新聞」「国民新聞」や俳句誌「ホトトギス」にも芋銭の漫画や表紙画が掲載されるようになり、交友範囲が広がるきっかけになる。
大正元年~2年発刊 秋元梧楼が明治時代の俳人100人の俳句を選び、短冊に認めたものを集めたもの。『天地人の三分冊で構成 (入手不可)
大正9年刊行。明治末から大正初期の作品集。 一茶の俳句を夏目漱石が書き小川芋銭が絵を描いたもの。これらの三人を称して三愚といい、滑稽、諷刺、慈愛を表している。 (復刻版有り)
大正12年刊行。同年、川端r龍子と一緒に展覧会を開き、その時出品した作品10点を纏めて画集にしたもの。関東大震災直前の作品集で、微密な筆法を用いた作品が多いのが特徴
昭和3年発刊 明治44年~昭和3年までの作品を制作年の新しい方から順に収録したもの。第一の基本画集と言えるが、芋銭本人は不満足な画集であった。。モノクロ図版45点が収められている
昭和9年発刊 一茶の句をたくさん用いた俳画集
昭和12年に古希記念展覧会を開き、その時出品の作品を主に構成されていて、収められた作品は総て優れていて、芋銭芸術がここに極まっている。
昭和13年俳画堂より発刊、芋銭最後の画集。河童の芋銭と言われた所以はこの画集にある。昭和53年に復刻版が綜合美術社から出版されている。
芋銭が描く河童は誰がみてもすぐに理解できるほど軽妙で風刺的で、こどもから老人にいたるまで愛好されている。しかし彼が描いた河童の絵は中国古代思想の老子や荘子の哲学が根底にあり、その作風は北斎漫画、浮世絵、さらに錦画、民俗資料、妖怪文献などの関わりを持っている。
河童百図その一、山水悠々
※俳句詩「ちまき」主宰者の川村柳月のこと
昭和14年、遺作展をを記念して出版。図版が立派で芋銭研究の基本画集として欠かせない。
芋銭が亡くなってまもなく、兵庫県丹波、西山氏の芋銭コレクションによる芋銭展が京都市美術館で開催された。それを記念して出版。
昭和63年日本経済新聞より出版
昭和12年の作品。後方に描かれた水辺は牛久沼とも思えるが、芋銭は当時、北相馬郡文村横須賀に滞在したことを思うと、おそらく利根川であろう。と、い
うことは、小六月に描かれた農村の風景は、文村周辺と考えられるが。
虚弱体質な芋銭にとって農作業のつらさを誰よりもよく理解していた。だからこそ、農民に限りない愛情を注いでいる。垣根越しに談笑する人々の姿、農作業を終えてほっとしているのだろう。話し声が聞こえてきそうだ。
「小六月」の写真をクリックしてください。画像が大きくなります。
2002年に茨城県北相馬郡利根町で行われた小川芋銭展。下図はそのポスターと、弓削家に残る芋銭のが画いた下絵である。
「利根町で過ごした芋銭の日々を探る」と題して講演と小川芋銭の作品が多数展示された。
講演の内容は利根町にお住まいの弓削暢二さんによる「想い出の祖父芋銭」、県立歴史館学芸員の北畠健さんによる「芋銭の人と芸術」についてお話された。
弓削氏より講演会で
見せていただいた芋銭の下絵
利根町で行われた小川芋銭展のポスター
ポスターに描かれた左の河童の顔をクローズアップすると・・・(右の写真)
芋銭は、東洋的自由の象徴として河童を好んで画いた。ここで描かれた河童も然り。自由のびのびと遊んでいる。ところが、よく見ると、河童であるはずの顔の部分が、明らかに鮭なのである。何を意図しているのか分からないが、芋銭が文村に滞在した時代の利根川は、鮭がよく釣れたという。それも最上級の鮭が。芋銭の画の奥の深さ不思議さを示している一例である。
芭蕉の旅心に憧れ方々を旅した芋銭。その生き方を決定づけたものは、こうとの結婚であった。妻こうは同じ村で農業を営む黒須巳之助の次女で健康的に優れ、強い意志を持った女性であった。芋銭は虚弱体質が故に嫌で嫌でどうしょうもなかった農業。その農業を妻に背負わせ、自らは家業を危惧することなく創作活動に没頭することが出来るようになった。そのような夫の自由奔放な生き方に不平不満を何一つ言わなかった妻であった。
芋銭が描こうとしたもの、それは旅の中から見つけた自然や、人とのふれあい、歓喜であり、旅なしでは到底見いだせないものであった。まさに「仙境の画人」と言われている謂われであろう。帰らぬ夫を待ち続けた妻こうの心境は、さぞ辛かったであろう。
各地を旅した芋銭。その中でも滞在が一週間から一年に及んだ丹波と、夏の間避暑を兼ねて滞在した銚子は、芋銭にとって、単なる旅ではなく、創作活動の拠点とも言える土地であった。
また、晩年の芋銭がたびたび訪れた娘の嫁ぎ先、文村先須賀川(現茨城県利根町)。ここは牛久から距離が短く、旅という言葉が相応しくないかもしれないが、晩年の芋銭の作品を語る上で欠かせない創作活動の場であったので特筆する。
芋銭の旅の中でも、特にお気に入りはまず丹波(特に兵庫県市島町)であろう。それは高浜虚子の門人であり気心の知れた西山泊雲がいたからである。
大正7年10月に初めて丹波を訪れ、西山家に一週間滞在した時、芋銭はすっかり丹波が気に入り、以後幾度も丹波を訪れる。やがて芋銭と泊雲は無二の親友となる。そして芋銭の三男と泊雲の娘を、泊雲の長男に芋銭の二女をそれぞれ結婚させ、小川家と西山家は親戚関係になったのである。
口すすぐ石もありけり水の秋
この句は、芋銭が泊雲方に逗留していた時詠んだ句で、酒造を営んでいた西山家の中庭の一角に泉が沸いていて、逗留中は毎日この泉で顔を洗い歯を磨いて、東に向かって拝んでいたという。
西山家は銘酒「小鼓」を醸造する蔵元で、聞くところによると、室内には芋銭の他に正岡子規や、高村光太郎などの著名人の書や絵、屏風絵などが所狭しと並んでいて、まるで私設美術館のようだったという。西山酒造前には、芋銭が詠った次の歌碑が建っている。
新しき酒かもせりと丹波路や竹田の里に竹たてし家
西山酒造の中庭
西山酒造玄関
丹波にたびたび赴いたもう一つの理由は、石象寺(同じく市島町)のたたずまいであった。芋銭はそのたたずまいが大変気に入り、長期逗留を決め込み、庫裏の二階を間借りして画室とした。
石像寺には「霧海の庭」があり高浜虚子とともに芋銭の句が建っている。
鷹鳴て蘭若の秋の晴に坐す
石像寺・霧海の庭
石像寺に逗留中描いた作品、「丹陰霧海」(大正13年院展出展)は石像寺の「霧海の庭」にある巨岩から眼下を見下ろした情景を描いたもので、山に囲まれた丹波の嶺々は霧に覆われる事が多かったのだろう。
石像寺では、芋銭が滞在した部屋を当時のそのまま残しているという。
芋銭が逗留した部屋から望む景色
五十六歳(大正13年)になった芋銭は、この年から晩年まで、たびたびあるいは長期に渡り、銚子海鹿島の「潮光庵」で過ごした。
「潮光庵」は芋銭を敬愛する篠目八郎兵衛(茨城県石岡在住)が芋銭のために逗留を勧めた別荘で、松林の中の八畳、六畳、台所という小さな家である。芋銭は、ここで一人静かに創作活動を続けた。
潮光庵
潮光庵の一室
大海を 飛びいづる如と 初日の出
芋銭の句碑
この句は、現在の天皇陛下がお生まれになった時、その喜びを詠んだものと言われている。
銚子は江戸時代より、墨客・歌人・俳人らの来訪が多く、江戸文化の影響を強く受けていた。そのため、いろいろな文学碑が残っている。芋銭の句碑以外にも、松尾芭蕉句碑 古帳庵句碑 国木田独歩詩碑 竹久夢二詩碑 尾崎咢堂(行雄)歌碑 尾張穂草歌碑 佐藤春夫詩碑 高浜虚子句碑 源俊頼歌碑などが建っている。これらの多くは「海鳥秋来の丘」から近い海岸線にたっている。太平洋が180度広がる大パノラマは、画作に於いても文学活動に於いても、大きな作用を及ぼしているのであろうか。小川芋銭ゆかりの地としての銚子には、「大内かっぱハウス」という美術館がある。これは元銚子市長の大内恭平さんが、全国から集めた河童アイテムを集めたもので、4千点以上のコレクションが展示公開されている。その中に芋銭が描いた「渇波と狢藻」が展示されている。河童を渇波と表現したところが芋銭らしくて面白い。
長女(はな)が嫁いで以来、その嫁ぎ先である弓削家(茨城県北相馬郡文村・現利根町横須賀)をたびたび訪れる芋銭であったが、昭和10年10月から12年9月までの2年間は遂にここの住民となったのである。
それは仕事の都合で弓削家が一家を上げ長期的に家を空けることになり、芋銭がその留守番役を引き受けたためであった。芋銭は始め、ここを隠棲の地として、静かな気持ちで絵を画きたかったのであろう。ところが、文村に移ったことが世間に知れ渡り、来客の対応に追われたという。文村横須賀は、成田線布佐駅(我孫子より3駅目)からタクシーで約10分の近さだった。牛久と比べると東京から近かく、以前にも増して、訪問客が増えたのである。 そのような訪問客を謝するため、玄関先に掲げた「面会謝絶」の貼り紙さえ、芋銭の書なら高価だからと、引きちぎられたほどであった。
横須賀に滞在した2年間に制作した作品数は大小およそ60を数え、それらの大部分は晩年の代表作となった。その中で特に有名な作品に「湖上迷樹」、「桃花源」「古文水土冝・清夜吟」がある。もちろん俳画などの小品も多数制作している。
利根町の古老たちの記憶によると、「カッパのイモせん」などと親しく呼んでいたことを記憶していると言う。単に絵が巧かっただけでなく、人格にも優れていた一面を知ることが出来る。
晩年の芋銭は、長女はなの嫁ぎ先である文村須賀川で過ごすことが多かった。文村に滞在中の2年間、父のためにと長男がアトリエを新築したのであるが・・・。
昭和12年9月、アトリエ完成とほぼ時を同じく牛久に戻ってきた芋銭であったが、翌年の1月脳溢血で倒れ、病床の身となった。後に「「雲魚亭」と名づけられたこのアトリエは、芋銭にとって、同年12月他界するまでの11ヶ月の短い間の病気療養の場であった。
現在は牛久市生涯学習課によって記念館として管理され、広く開放されている。
館内には、芋銭の作品のほか、芋銭の遺品(硯、筆)が展示されている。また希望者には芋銭にまつわる記録ビデオを見ることが出来る。
雲魚亭
これは牛久市生涯学習課発行のパンフレットで、昭和63年頃入手。とても珍しいので紹介します。
河童の伝説とともに親しまれた河童松は今はない。河童松のあった場所に河童松碑が建立されている。
この河童松碑の裏側に次のことが書かれている。
牛久沼を望むこの地にひときわ高くそびえ、牛久の歴史を静かに見守ってきた一本の老松があった。樹齢500年余を数えたこの松は「河童松」と呼ばれ一つの伝説と共に地域の人々に親しまれきたが惜しくも先年枯死しその歴史を閉じた。
沼周辺に遊ぶ水鳥たちが羽を休める格好の場として夕暮れともなるとこの木に数百羽の鳥が集まりねぐらとしたという。当然のことながらこの老松は芋銭のの画題となるところなり。「牛久沼河童松」として傑作の一つに数えられている。
芋銭生誕120年を迎えたこの機に河童松を植樹すると共に芋銭自筆になる「牛久沼河童松」を碑刻みここに建立する。
1988年2月
小川芋銭生誕120年記念事業実行委員会
会長 牛久市長大野正雄
朝タに 芋銭したしみ ながめたる 沼の向こふの 富士美しき
この歌碑は作家で歌人であった「中河与一」が芋銭の雲魚亭で過ごした日々を思い、その胸中を詠んだもの。
昭和24年4月、犬田仰氏によって「芋銭碑」の建設が発案された。日本美術院の横山大観や小林巣居人に賛同を求め、概ね趣旨には賛同するものの、実際に動き出す状況にはならなかった。そのような時、芋銭の良き理解者の俳人西山泊雲(兵庫県丹波)と池田龍一(福島県医師)が具体的な建設に乗り出す。西山泊雲は計画の半ば亡くなり、子息の謙三が遺志を継ぐ。実質的な建設は池田龍一氏によって進められた。また、画家の吉井忠氏(池田氏の友人)が献身的な働をした。
碑の表面に河童の絵を、裏に芋銭さんの自筆略歴を入れること。碑の大きさは2メートルぐらい。と、具体的な案を池田氏が提案する。完成した碑には、池田氏を始め、それに拘わった人々の名前はどこにも見あたらない。河童の碑は心から芋銭を敬愛する人たちによって建てられたのであり、自分の名前を後世に残そうと言う気持ちはさらさら無かった。
吉井忠氏が碑の材料入手から彫刻、碑の運搬に至るいっさいを行った。碑の材料は東京の護国寺境内にあった根府川の自然石を求め、彫刻もそこで行なった。碑の中に描かれた河童の絵は芋銭晩年の作「河童図」の複製画」を相応の大きさに引き伸ばし、中村直人が監修、八柳恭次氏が二ヶ月要して彫り上げた。
除幕式は、昭和27年5月25日に挙行された。芋銭先生記念贈呈書」によると贈呈者は(池田龍一、犬田仰、飯野逸平、篠目篤、小林巣居人、西山謙三、吉井忠、加藤鎮雄)贈呈先(芋銭先生御奥様ほか御一家様」となり、つまり河童の碑は小川氏個人の所有物なのである。また除幕式にあたって、池田氏は「芋銭の芸術と人柄を考えると簡素なもので十分」と述べている。
正面は芋銭筆の河童座像と,右側に芋銭筆の「誰識古人画龍心」の画賛を刻入,
河童の碑表面に掘られた「誰識古人画龍心」とはどう言う意味なのであろうか。平たく読むと「誰か識る、古人龍心を画を」あるいは、「古人龍心を画けるを」となる。
牛久市公式HPや牛久観光協会HPによると次のような解釈が載っている「昔の人は龍を描いて宇宙大自然の偉大さを表現したように芋銭は河童を描いて科学を超越した万物の根元である太陽系大自然の偉大な掟、即ち"道"の探求に生涯を捧げようと努力をしているが誰かこれを理解してくれる人がいるのであろうか?」これは公式見解とと言えるだろう。一方、小川芋銭と交流があった住井すゑの解釈は若干ニアンスが違う表現で次のように解りやすく、「昔の人がどうして龍を描いたか。龍というのはこの世にはいない。しかし自然界の不思議さ、なぜ宇宙があって、太陽系に地球があって、その地球にはいろいろの生物がいるのか、どこからどのように生物が生まれたのか、考えれば考えるほど不思議だ。」と、「小川芋銭効き歩き逸話集」に言葉を残している。いずれにしても哲学に裏付けされた奥深い言葉で、この真意を理解するには、老荘思想の勉強が必要かもしれない。
芋銭自筆による略歴が刻まれている。(クリックすると芋銭直筆の裏面が出てきます。)
明治元年二月東京赤坂溜池ニ生ル
同十四年本多錦吉郎経営ノ彰技堂ニ入リ洋画ヲ学ブ
亦市隠抱朴斎ニ赴就キ漢画ヲ凍問フ
後費漢源ノ画風
鳥羽僧正ノ筆赴ニ傾倒シ
南画及漫画ヲ描ク」
大正六年日本美術院同人トナル
自筆略歴によると、芋銭は、彰技堂で洋画を学びながらも、抱朴斎という市中の絵描さんから漢画を学んだ。その後、中国の画家費漢源に傾倒し、鳥羽僧正(国宝鳥獣戯画の著者)の筆趣に傾倒し、南画及び漫画を描くようになった。そして大大正六年日本美術院同人になったことが記されている。
所在地 牛久市城中町 雲魚亭に隣接
河童の碑から望む牛久沼
牛久町(現牛久市)図書館発刊の「小川芋銭ー聞き歩きい逸話集」に小川芋銭と縁が深かった方々からメッセージが寄せられている。それらの一頁一頁を読むと、「芋銭さんは偉ぶらない普通のおじさんで、偉ぶらないから余計に偉く感じる」と言う意味のことが多く書かれている。また、「芋銭さんは、貧しい人にはただで絵を描いてくれるが、金持ちには高く売りつけた」と、この言葉は恵まれない人間への愛情が並大抵でなかったことをよく示している。
明治になって、近代国家へと様変わりした日本であるが、精神構造だけは江戸時代となんら変わらなかった。それは他国に負けない軍事力と、精神力を備えようとする日本にとって、封建主義的な軍国主義教育が必定であったからだ。そのような時代の教育を受けながら、芋銭は世の中の時流に乗ることもなく我が道を進んだ。威厳こそが美徳と思われた時代、画家として大成し有名になってからも、決して偉ぶらず、愛するべき隣のおじさんであった。では、芋銭のそういう気質はどこで育ったのだろうか。
生まれた時から体が弱かった芋銭。非弱な体での丁稚奉公は苦しかっただろう。そんな芋銭を救ったのは、画家への志であった。幸い、画塾彰技堂で本多錦吉郎に絵を学ぶ事が出来た。ここで西洋画を学んだ芋銭であるが、絵だけでなく、行儀作法も厳しく教えられたという。人間若い頃の修行が大切だというから、芋銭はここでの学習で人間性を培ったと思われる。その後南画を学び、やがて本格的な日本画家へと成長する芋銭であったが、その過程において老荘思想を勉強している。難しい荘子の書を何巻も読んだという。この老荘思想が芋銭の人間哲学に大きく関わっていることはいうまでもない。
金を貯めることの無意味さ。それは権威主義への反発でもあり、芋銭は常に自然体という宇宙の法則に従って生きてきた。
芋が買えるだけの銭があればいい」。この言葉が芋銭の人間哲学を如実に表している。
貧しい人には優しく、権威主義を嫌う芋銭にとって、当時の社会主義者幸徳秋水らと、会い通じるものがあった。幸徳秋水が創設した「平民新聞」に風刺画を送っているから、親しく交流があったことは確かだ。しかし、芋銭は幸徳ら社会主義者とは一線を画していた。なぜなら芋銭は単なる絵描きであり、俳人であった。争いごとを嫌う芋銭にとって、政治活動より、世の中の矛盾不条理を絵の中に託そうとしたのである。
こんなことがあったという。幸徳秋水事件に引責して、取締りが厳しくなった明治44年ごろ。芋銭は牛久沼のじゅん采を瓶につめ、東京の友人宅に届けるため、常磐線で上野に向かった。ところが上野駅を降りたところで、警察に連行されたのである。手にしたじゅん采を火炎瓶と間違えられたのである。
こういう間違いが起きるほど、当時芋銭は官憲から要注意人物としてマークされていたのである。
まだ作品が思うように売れない時代の住井すゑは夫の犬田とともに貧窮に喘いでいた。住井は、この貧窮を乗り切るため芋銭のところに相談に行った。用は恥を忍んでお金を借りにいったのである。そうしたら、芋銭は一枚の絵を描いてくれたという。「これをお金に換えなさい」という意味であった。さっそく、住井すゑはその絵を高く売り、当面の生活費を稼いだのである。その絵を買った相手は、当時売り出し中の作家、吉川英治であった。
牛久市城中町を散策すると三叉路でお目にかかる道標・改善一歩、よく見ると大正11年4月建設と刻んである。さらに詳しく調べると、小川芋銭の力で建設されたものとわかった。
大正の時代、城中の青年会が道標を建てることを決めて、芋銭に相談した。計画を聞いた芋銭は、木の柱ではすぐに腐ってしまうから石柱にするようアドバイスをした。アドバイスだけでなく費用も出したという。
青年会ではその石柱に芋銭の名前を刻もうとしたら、当人からの強い要望で名前の代わりに「改善一歩」と刻んだ。世の中を善い方へ進めるという意味だったが、皮肉にも以後の歴史を省みると、芋銭の気持ちとは裏腹に暗い世の中へと進んでいった。
売名行為的な善意を極端に嫌う芋銭。芋銭の死後、芋銭を敬愛する人によって建てられた「河童の碑」には、この精神が引き継がれている。建築に労のあった人々の名前は一切刻まれていない。真の善意とは何なのかを、後世の人たちに問うている。
改善一歩と刻まれた道標
五月雨 月夜に似たる 沼明り 芋銭子と刻まれた句碑が、三日月橋地区公民館に建っている。
これは牛久沼を愛する芋銭の、沼を題材にした代表作であろう。芋銭が活躍したした時代の牛久沼は、沼底が見えるほど透き通っていて綺麗だった。また、沼で取れる川魚やじゅん菜はなによりも好物だったという。
彼が河童を描くきっかけになったのは、老荘思想の影響もあるだろうが、何よりも目の前に広がる美しい牛久沼こそが、大きな要因であろう。
その牛久沼は、いつの時代か、じゅん菜が取れなくなった。沼を泳ぐ魚は鯉や鮒どころか、外来種が幅を利かせている。もしも芋銭が今の世に生きていたなら、この牛久沼を見ても、河童をイメージすることはなかっただろう。
芋銭直筆の句碑
三日月橋地区公民館に設置された芋銭像
牛久沼を見下ろす城中町の一角に曹洞宗得月院がある。沼を愛し、沼の風土を描き続け、沼のほとりにて生涯を終えた小川芋銭。牛久の歴史を刻んだ榧の大木に見守られながら芋銭はこの寺に眠っている。
芋銭の墓は本堂裏手小川家代々の墓に囲まれて建っている。残念ながらこの場所から牛久沼は見えない。しかし前方の林の方向に足を進めると木々の隙間から僅かに沼を望むことができる。さらに林の中に足を踏み入れると牛久沼が遠くにはっきりと望める。芋銭が愛した牛久沼は様変わりしてしまったが・・・。
芋銭の墓
得月院から望む牛久沼
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