水戸街道の経路は、今の常磐線や国道六号線に沿っているが、小貝川の宮和田の渡しを越えたところで牛久沼を避け、台地上の若柴へと迂回経路をとっている。
明治以前は牛久沼が今より一回り大きく、周囲は湿地帯のため通行が困難であった。牛久沼を船で対岸に渡る旅人もいたようだが、多くは若柴宿を迂回して牛久宿へと向かった。
若柴宿は千住から数えて8番目の宿駅で常陸国への入り口にあたる宿場であった。現在の馴柴小の角に当時の道標が残っていて、往時を知ることが出来る。
はたして、若柴宿の規模はどれぐらいだったのだろうか。隣接する藤代宿、牛久宿との距離がともに1里と比較的短いこともあり、本陣は存在しておらず、旅籠の数も少なかったようだ。また回状等の記録で問屋が2名いたことが分っている。
それ以上の詳しい事は、残念ながら、明治19年の大火で多くの家屋は消失し、それに伴い重要な資料が失われ、分らないことが多く、宿場の規模や繁栄ぶりは想像の範ちゅうである。
その中で、今でも「手の字屋」「染屋」「酒田屋」「伊勢屋」「山形屋」などの旅籠だったと思われる屋号が使われている事や、会所坂、足袋屋坂などの坂の名前が残っていて、宿場の名残を感じさせてくれる。さらに星宮神社の絵馬(歴史民俗資料館に展示)には、絵の中央部分に槍を担ぐ武士の姿が、そして左右に荷をのせた馬が数頭描かれていて、右下には列をなして歩く人々が描かれている。
おそらく、宿場の日常を描いたものであろう。若柴宿の繁栄ぶりを物語る貴重な資料だ。また「水戸土浦道中絵図--若柴宿の絵図」(歴史民俗資料館に複製が展示)を見ると、少々誇張だと思えるが、街道筋に40軒程の家並が描かれている。それらを併せて考えると、若柴宿のだいたいの輪郭が浮かんでくる。恐らく10数軒程の旅籠や茶店が並び、その他宿問屋及び会所や民家が並んでいたと推測出来るのだが。
水戸街道は水戸藩やその近隣諸藩を初め遠くは奥州方面からの諸藩も利用したと言う。往来する人馬が増えるにつれて宿場常備の人馬では足りなくなり、各宿場は近隣の村々を定助郷村、加助郷村として農民を無賃の労役に駆りたてた。農民たちの苦しみは言うまでもなく、宿場問屋と農民の軋轢となった事が想像出来る。
「牛久騒動女化日記」等によると、若柴宿は牛久一揆(牛久宿を背景にした農民一揆)鎮圧部隊の本陣となり、幕府から3人の代官が来た事などが記録されている。"街道"何と重みのある言葉だろう。その街道の重要な役割を担う宿場。宿場の繁栄は農民の血と汗によって支えられていた。
若柴宿の繁栄は長くは続かなかった。明治5年に水戸街道は陸前浜街道と改称され、その後牛久沼東岸沿に新道(現在の国道6号線とほぼ合致)が開通し、明治17年明治天皇の牛久行幸の際にこの道は改修された。改修間もない新道を正岡子規が通った記録が残っている。子規は牛久沼畔に佇み「寒そうに鳥のうきけり牛久沼」と詠んでいる。若柴宿を迂回するより牛久沼沿岸を直進する方が便利で一般的だったことが伺える。
その後の若柴宿は、本道から外れ、移り変わる時の流れからも取り残され、水戸街道の中でも最も宿場の面影を残す処として現在に至っている。
水戸土浦道中絵図(若柴宿の図)個人蔵 出典龍ヶ崎市史近世編
若柴村の鎮守、星宮神社に奉納された絵馬は縦120cm横150cmの極めて大きい絵馬で、風雨にさらされて表面の状態は良好でなく、文字や絵を総て判断する事が出来ない。
その内容は絵の中央部分に槍を担ぐ武士の姿が、そして左右に荷をのせた馬が数匹描かれていて、右下には列をなして歩く人々が描かれている。おそらく、宿場の日常を描いたものであろう、若柴宿の繁栄ぶりを物語る貴重な資料である。
現在は龍ヶ崎市歴史民俗資料館で大切に保管されている。
星宮神社蔵(龍ヶ崎市史近世編 出典)
馴柴小学校の道標の三面に「布川三里、江戸十三里、水戸十六里」と刻まれている。 初期の水戸街道は、我孫子から利根川に沿って布川、須藤堀、紅葉内の一里塚をたどり若柴宿に至る街道と、取手宿、藤代宿、を通って若柴宿へ入る街道の二通りであった、馴柴小の北東隅の三叉路はこの合流地点なのである。
裏面には次のように書かれている。
この若柴宿の碑は、文政九年(1826)十二月に建立した。 三叉路で旅人が迷い易いので若柴駅の老人が相謀り、普門品一巻を読誦する毎に一文ずつ供えて積み立てたとあり、十五名の村民の姓名が記されている。
市指定重要文化財
公用の人馬役として一日当り、人足二十五人、馬二十五匹が常に置かれていたが、しかし、17世紀末頃から次第に使用される人馬の数が増え、宿場だけでは人馬をまかない切れなくなり、周辺の村々へ定助郷や加助郷といった助郷役が賦課されるようになった。
天保14年に於ける若柴宿の定助郷村は次の通りである。
以上16ケ村となっていた。
村 名 | 村 高 | 勤 高 | 若柴への距離 |
---|---|---|---|
入地村 | 50石 | 100石 | 27町 |
佐貫村 | 434石 | 416石 | 17町 |
中嶋村 | 287石 | 200石 | 17町 |
稲荷新田 | 101石余 | 94石 | 14町 |
龍ヶ崎村 | 1000石 | 500石 | 1里13町 |
大徳村 | 1754石 | 438石 | 2里14町 |
河原代村 | 1003石 | 438石 | 20町 |
大田村 | 225石 | 222石 | 1里11町 |
別所村 | 174石 | 173石 | 24町 |
羽原村 | 866石 | 866石 | 1里8町 |
長峰村 | 599石余 | 299石 | 2里10町 |
八代村 | 914石 | 371石 | 1里30町 |
貝原塚村 | 766石 | 750石 | 1里14町 |
弥左衛門新田 | 468石余 | 231石 | 32町 |
根新田 | 108石 | 54石 | 34町 |
徳右衛門新田 | 233石 | 116石 | 1里15町 |
明和元年、水戸藩主の水戸入部のときは、藩士達のの行列は約千人、馬六百匹と大規模な行列となるので以上の定助郷のほか、近隣の村々が加助郷として動員された。その数57ケ村と記録されていて、その後の加助郷の範囲として定着したようである。
この強制的賦役は、地元村民にとって負担が多く、常に宿場問屋、名主、農民の軋轢となった。
若柴宿の隣り、牛久宿(牛久市)と荒川沖宿(土浦市)がある。文化元年10月この両宿場町を背景に定助郷、加助郷の制度のために貧窮した農民たちの反乱、助郷一揆が起きる。世に言う牛久助郷一揆でである。
詳しくは牛久一揆をご覧ください。
実は、この反乱の鎮圧の舞台が若柴宿なのである。
以上の通り、鎮圧の本陣が若柴宿に置かれ、反乱は鎮圧されたのである。
若柴宿を知る上での数少ない記録と言えよう。