金竜寺

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新田義貞の墓

若柴上町(竜ヶ崎市)の一角、佐貫を見下ろす高台に太田山金竜寺という曹洞宗の古刹がある。市の広報などで紹介されている「藁干し観音のお話」と「牛になった小坊主」の伝説でお馴染みのお寺である。

「藁干し観音のお話」は新田義貞が藁干しに隠れて難を逃れたと言うお話しで、恐らく金竜寺が上州金山にあった頃作られたと思われるお話で、鎌倉幕府を倒した悲運の武将新田義貞と金竜寺の関係を示唆するものである。それもそのはず、金竜寺境内の裏手には義貞を初め新田家歴代の墓が並んでいる。この事も市の広報、観光案内等で紹介されていて、金竜寺と新田義貞の密接な関係を証明している。そもそも新田義貞の法名は金龍寺殿眞山良悟大禅定門なのである。

では、なぜ、新田義貞の墓が茨城県県南の地にあるのか、南北朝時代に遡って考察してもよう。

若柴の金竜寺

新田義貞は南北朝の戦いにより越前藤島(福井県福井市新田塚町)にて足利軍に敗れ討ち死する。そして亡骸は称念寺(福井県坂井市)に埋葬された。1338年(延元3/建武5) 室町時代中期、上州太田(群馬県太田市)金山城の重臣横瀬貞氏は城内に祖父新田義貞の菩提寺金龍寺を創建の為、文明年間(1469-1486)称念寺より遺骨を移し墓を建てた。当時の金山城主は岩松家純であったが実権は横瀬貞氏が握っていた。
戦国中期、貞氏から数えて6代目の横瀬泰繁の代になると下克上により、横瀬氏は名実ともに金山城の城主となる。1565年(永禄8)頃。この頃から横瀬氏は本拠地である由良の荘を採って由良と名乗るようになる。

上州大田の金龍寺

写真提供 太田市在住 佐々木さん

由良氏の牛久移封後、上州大田の金龍寺は建物、木造、墓のみ残し荒廃する。その後、天正十八年に榊原康政が館林城主になると、寺の再興を図り、武蔵国秩父郡赤染村の僧侶によって復興され、了菴派に改められ以後今日に至っている。

境内には、新田義貞300年忌にあたり建立された供養塔や由良氏一族の五輪塔がある。詳細

泰繁の子由良成繁の代になると、小田原北条軍が金山城を攻める。攻防の末由良氏は北条方に下り嫡男国繁は人質となる。そして城を明け渡し桐生城へ本拠を移す。それに伴い金龍寺も桐生城内へ移す。

1590年(天正18)羽柴秀吉軍が小田原城を攻撃。成繁亡き後、城主のごとく活躍したのが、成繁の正室赤井氏(妙尼印)であった。前田利家が上野国松井田城を攻めると、赤井氏は孫の貞繁(国繁長子)を大将として秀吉方として参戦した。(他説あり)

北条氏滅亡後、秀吉はその功績により赤井氏に対し、常陸国牛久5,400石の領地を与えた。赤井氏は領地を子の国繁へ譲り、自らは得月停(後の曹洞宗得月院)という隠居所を設け妙印尼となり余生を過ごすのである。こうして由良国繁は岡見氏滅亡後の牛久城の城主となったのである。

当初、金龍寺は現在の得月院(牛久市城中町)に置かれたが、直ぐに岡見氏菩提寺であった東林寺(牛久市新地町)に移し、東林寺を金龍寺と改めた。

牛久市城中得月院

得月院境内 妙印尼の墓

こうして由良氏の前途は揚々たるものかに思われたが、しかし、由良氏の牛久城主の座は国繁一代限りであった。国繁没後、その領地は没収となり嫡子に相続権は許可されなかった。その真意は今も謎であるが。皮肉にも新たに牛久藩主となったのは関ヶ原及び大坂の陣の功労者山口氏なのである。余談だが、山口氏は城を持たず、牛久沼を見下ろす景勝地(河童の碑付近)に陣屋を築き、ここで明治維新の廃藩置県まで牛久藩を支配したのである。

さて、牛久城は廃城となり、城主の座を失った由良氏は東猯穴(ひたち野牛久駅付近)に僅かな所領を許され幕末まで続くのであるが、多くの家臣たちは浪人となって市井に溢れたことであろう。これに伴い、寛文6年(1666)金竜寺と義貞の墓は、幕府の庇護を受けて、ちょうど牛久沼の対岸、若柴の古寺を改修してこに移されたのである。

このように、義貞の墓は越前国称念寺から数奇の運命を経て常陸国若柴金竜寺に変遷され、現在に至ったのである。尚、福井県丸岡町の称念寺には屋根付きの立派な義貞の墓が今も残っていて、県指定史跡となっている。更に群馬県太田市の金竜寺には新田義貞三百回忌法要に際し造立された立派な供養塔が建っている。それらは義貞にとって由緒深いところで、彼の事跡を振り返るに於て意義のある史跡と言えるが、いずれも再興されたものである。つまり、ご当地金竜寺に祀られた五輪塔こそ正統な流れを汲むものであるが、新田義貞にとって、常陸国若柴は無縁の地であるがために、史跡としてそれほど重要視されていない。

旧水戸街道若柴宿の一角、新田義貞の墓は金竜寺本堂の裏手にひっそりと佇んでいる。周りは竹薮で囲まれていて薄暗く、訪れる人も少ない。ああ、これが義貞の墓か、と思わせるほど貧弱であるが、幾多の風雪を耐え忍んだ歴史の重みを感じることが出来る。


四基並んだ五輪塔、向かって左から新田義貞、横瀬貞氏、由良国繁、由良忠繁の順に並んでいる。

金竜寺・新田義貞の墓

新田義貞の墓遍歴
越前称念寺(延元三年)
上州金山金龍寺(応永二十四年)
桐生金龍寺(天正十六年)
牛久金龍寺(天正十八年)
若柴金龍寺(寛文六年)

新田義貞とは

新田氏は上野新田荘を本拠とする豪族で、東接する下野足利荘の足利氏と同じ源氏義国からでた武家の名門であった。しかし北条氏の執権のもとでは足利氏よりも冷遇され、あたかも足利の一氏族のごとく軽視される。源氏再興の夢を賭け、足利尊氏と共に戦い、鎌倉幕府を攻め滅ぼしながらも、尊氏と対立する根源はそこにあったのである。

義貞の人間像は、足利尊氏よりも軍略、知略にすぐれつつも、正じき者で無骨で純粋な男、典型的な板東武士であった。そのような性格が災いしてか、それとも単に勝機に恵まれなかっただけか、偉大なる歴史のヒーロに成り損ねた悲運の武将である。

東部鉄道太田駅前の 新田義貞と弟の脇屋義助像

(写真提供 太田市在住佐々木さん

義貞の略歴

1301(正安3)
上州上野の国世良田に生まれ、幼名を小次郎と名乗る。
(幼年期、少年期の記録は殆ど無い)
1333(元弘3・正慶2)
生品神社で弟の脇屋義助とともに挙兵。稲村ケ埼から鎌倉へ突入し、北条軍を攻め落とし、鎌倉幕府を滅亡させる。建武新政で功臣として遇せられ、従4位下、越後の守の位を授与す。
1334(建武1)
武者所頭人となる。
1335(建武2)
足利尊氏と対立。箱根竹の下の合戦で尊氏軍と戦い破れる。
1336(延元2・建武3)
足利軍を破り尊氏を九州へ遁走さすも、再起した尊氏に兵庫の戦いで敗れ、越前金ヶ埼城へ遁走。
(ここが歴史の分岐点。義貞に勝機は十分あったにも関らず、不幸にも彼の上には軍略音痴の公卿がいたからである。すべてを義貞に任せていたならばら、傷ついた尊氏など敵ではなかったはずである。)
1337(延元2・建武4)
金ヶ崎城落城。山城へ逃れ奮戦す。
1338(延元3・暦応1)
越前藤島(灯明寺畏畷)で討死。