旧水戸街道若柴宿

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若柴宿、街道を行く

江戸時代の旅人になった気持ちで歩いてみよう。

小貝川、宮和田の渡し付近

宮和田の渡し付近

北相馬郡藤代町と龍ヶ崎市の境界を小貝川が流れている。昔で言うならば下総国と常陸国の国境である。

その場所は国道6号線・文巻橋(ふみまきばし)と少し南側をJR常磐線鉄橋がが平行して架かっている。

文巻橋は住井すゑさんのお馴染みの小説「向い風」のラストシーンの舞台である。

 

"ゆみは黙って橋を渡りはじめた。

橋上は一入風が強かった。しかも向い風だった。ゆみはその風に突っ込むように、一直線に進んでゆく・・・・・。

上流は雪解であろうか、小貝川は水豊かに、淙々として薄暮の中を流れていた。" 

住井すゑ作 「向い風」より最終章抜粋

その橋は主人公ゆみと健一の別れのシーンを物悲しく演出している。吹く風は冷たく向い風で、まるでゆみのこれからの人生を暗示しているかのように。

そのような小説の主人公ゆみの事を思いながら文巻橋を藤代側から歩いて渡ると、龍ヶ崎市のシンボル、龍のデザインを施したシンボルタワーが目に付く。その龍のタワーを目印に右に曲がると土手道の脇に坂道があり、坂を下ったところに観音様が建っている。

江戸の昔は、この川を渡るには、宮和田の渡しで舟に乗り、対岸の小通幸谷村で降りて常陸国の第一歩を踏んだことであろう。ちなみに正徳五年(1715)に記された書によると、渡し賃は二文掛かったらしい。

池波正太郎の「鬼平犯科帖・雲竜剣」にもこの渡し場のことが書かれている。ドラマ化(テレビ)されているので、この作品を通して、当時の宮和田の渡しを振り返ることが出来る。


さて、旅人は舟から降りるとまず、小通幸谷村の観音さまが目に止まり、何らかの念仏を唱えたはずである。

この観音様は俗称『小通観世音・十一面観音』といい、正確には『清水山慈眼院十一面観世音』という。

一説には平清盛が将門に討たれた父国香の霊を弔うため建立したと言われ、もう一説は、牛久城主由良国繁が先代の城主岡見家の戦没した武士の霊を弔って建立した七観音の一つだとも言われている。 寺伝によると、江戸時代までは真言宗で、当時は境内も広く寺領も一町歩あり、また当地の十一面観世音が眼病に霊験があると信じられ、遠近の参詣者や参拝者が多かった。しかし、明治初年の神仏分離令に際し、無檀無禄寺院として廃寺となったが、七観音八薬師の由緒をもって、若柴の金龍寺の末寺として再興されたと記録されている。


昔はもっと川岸に建っていたが、河川改修で現在のところところへ移築されたらしい。

小通観世音・十一面観音

牛久沼排水機場 

観音様の前を通り過ぎると、まもなく国道6号線から分岐した車道と合流する。その道は若柴宿へ続く旧水戸街道で、道幅はさほど広くないが、車や人の往来が少なく歩きやすい。

道の両側に、立派な蔵が建っている旧家が目に付く。古い民家の入り口の京染呉服という看板が妙に情趣をそそる。 前方に火の見櫓が見え、その先には高層マンションがそびえている。右に大きくカーブすると常磐線の踏切で、警報機が常にカンカンカンと鳴っている。踏切を渡ると視界は小貝川の水辺の風景に一変する。


目の前には牛久沼排水機場が見え、道の両側には花畑が並んでいて季節の花が道行く人々の心を和ませてくれる。この花畑は「小貝川・花とふれあいの輪」と称して、小貝川の土手を花でいっぱいにしようと自然に集まって出来た、ボランティアグループの手によって育成されている。常磐線の車内からも水辺の風景を背景に花畑が見え、乗客の中から「綺麗ねっ!」と、感嘆な声を耳にする事もある。

水辺に目を向けるとハクチョウが二羽ほど泳いでいるが、おそらく牛久沼からはぐれた迷い鳥であろう。河川敷は広々としたグランドで、小学生らしき少年が二人三人キャッチボールを楽しんでいる。


そんなのどかな風景を見ながら八間堀(谷田川)に架かっている往還橋を渡ると、左方に大きな碑が建っていて『治水の碑』と刻まれている。裏面はところ狭しと字が書かれているが、汚れがひどく読むことが出来ない。おそらく、小貝川の度重なる決壊により、この地方が昔から水害に悩まされ続けていたことを物語っているのであろう。

飯島つる子の碑 

八間堀を越えると、閑静な住宅街が続き、その一角に飯島つる子の碑が建っている。

飯島つる子は明治中期、龍ヶ崎市根町の造り酒屋の生まれで、その事績は農村がまだ貧しかったころ、飯島和裁学校を開き、付近の若い娘達を集め、無報酬で裁縫を教え、女性の自立を促したと言う。


飯島つる子の死後の昭和2年に、その偉業を讃え記念碑建立の話が持ち上がった時、飯島和裁学校の卒業生達はその恩に報いるため、皆んなで協力し合って記念碑を建てたと言う。 こうして、今も飯島つる子の碑は、道行く人々の目を引いているが、その秘められた歴史を知る人は数少ない。

道標

旧水戸街道はやがて潮来街道と合流する。まっすぐ西進すると龍ヶ崎市の中心部へと続くが、昔の旅人はここでよく迷ったらしい。若柴方面への道はカスミストアー佐貫店隣のとんかつ屋の信号を左折するのである。よく見ると三叉路の角に小さな道標が建っている。普段何気なく通ると見落とす程の小さい道標で、屋根が付いた建物の中にスッポリと収っている。そこには、「右りゅうがさき、なりた、左わかしば、水戸」と刻まれている。


 

道標従って左に曲がると、70m程先に関東鉄道竜ヶ崎線の踏切がある。ちょうど佐貫駅を出発したばかりのジーゼルカーがプ~~~~と汽笛を鳴らして通り過ぎて行く。


 

踏切を越えるとまもなく馴柴小学校が見えてくる。創立100年以上と言う長い歴史を持つ小学校である。

校舎の東北隅がちょうどT字となっていて、昔し風に言うと南中島村の三叉路である。そlこには旅人が迷わないようにと道標が建っていて、水戸、布川、江戸という文字がはっきりと読みとれる。

『常総国境より若柴村へ十八町、坂二、川橋一、若柴より牛久村へ一里、坂五』

ここから北進するとまもなく若柴宿なのである。

とんかつ屋(廃業)前の道標

大坂

馴柴小学校前のT字を左折し100m程行くと、駅前の大通りと交差する。左に曲がると佐貫駅で、右に曲がると竜ヶ崎ニュータウン、そして直進するとあたり一面田園風景が広がり、その先の高台に若柴宿がある。


左右は水がいっぱ張られた水田が広がり、田植準備に追われているお百姓さんの姿を見かける。

やがて若柴宿の入り口へと到達すと、そこから丘に登る坂道で、その坂道は大坂と名前が付けられている。若柴宿は高台のため坂が多く、坂には一つ一つ名前が付けられいる。例えば会所坂、延命寺坂などである。しかし地元でも名前を知っている人はだんだん少なくなっている。

その坂を登る手前の右側は、かつて村役場があったところだが今は空き地となっている。またこの近くに若柴郵便局があったらしいが、明治初期に開設され、宿場の衰退とともに姿を消し、今では記憶に残っている人は誰もいないが、若柴局という消印を見た人がいるそうです。

八坂さん

大坂を登り切ると八坂神社がある。境内には石段があり、その先に社殿が建っていて、この社殿は平成元年に建て替えられたものだが驚くほど貧そうである。しかし地元では八坂さんと呼ばれ親しまれ、毎年7月27日には老弱男女が参加して盛大な祭りが執り行われている。


この場所は戦国時代、若柴城の外城があったところで、遺構などそれらしきものは何も残ってないが、地元では今でもここを外城(トジョウ)と呼んでいる。ちなみに本丸はここより800mほど先のふたば文化幼稚園の裏手である。

下町(しもまち)

八坂神社を直角に左に曲がると、まっすぐな道が金龍寺入り口まで続く。その1kmほどの道筋にかつて旅籠やお店が軒を並べていたらしい。

残念ながら、明治19年の大火で殆どの家屋は消失し、現在の家並みの大部分はその後に建てられたものである。

当時の宿場の繁栄ぶりを知るすべはないが、坂の名前に会所坂、足袋屋坂、鍛冶屋坂という名前が付いていることや、「手の字屋」「染屋」「酒田屋」「伊勢屋」「山形屋」などの旅籠だったと思われる屋号が今でも使われていることと、また星宮神社の絵馬に描かれた光景を併せて考えると、若柴宿のぼんやりとした輪郭が浮かび上がって来る。


今もなお、この下町の一角は門構えの旧家が道の両側に並んでいて、往年の面影を偲ぶことが出来るが、近年、周辺の住宅開発に依る土地の売却などで、街道筋の住民の生活が豊かになり、家の建て替えが頻繁におこなわれている。

いつまでも、明治の面影を残した町並みであって欲しいと願ってやまない。

若柴下町

延命寺坂

下町の一角に延命寺坂がある。むかし真言宗延命寺があったが、明治初期の農村荒廃期に無住となり、神仏分離に際して廃寺となったと聞く。

坂を下ると”ねがらの道”に出る。ねがらとは根のはびこると言う意味で、台地下に沿った道に付けられる一般名詞である。冬から春にかけて斜面の林にやぶ椿が咲くことから”やぶ椿の小径”という愛称が付けられている。

延命寺坂

会所坂

延命寺坂を下りないで街道をさらに進むと左手に会所坂と書かれた標識が目につく。坂を少しだけ下った右手に会所があったことから坂の名前となった。ここで言う会所とは宿場の運営をする集会所のことであり、常時人が詰めていた。

現在は生活路としての機能は果たしていないが、昨今この道が僅かながら整備され、何とか人が通れる状態となった。

ちなみに、台地下のねがらの道に通じる坂道が4通りある。さきほどの延命寺坂、会所坂、そして足袋坂、鍛冶屋坂。いずれも宿場の名残を感じさせてくれる。

金龍寺

八坂神社から続いた真っ直ぐな街道は金龍寺参道の入り口で右に直角に曲がっている。曲がらないで細い道を直進すると金竜寺の参道に入るのだが、その右脇に十数段の風化した石段がある。おそらく旧参道であろう、いまでは使われていない。

参道の両脇には梅の木やつつじなどが植えられ一年中季節の花を楽しむことが出来る。さらに参道入り口のところから桐林が広がり淡紫色の花を咲かせている。参道を更に進むと墓地があり、その先は木々が生い茂った森となり、ウグイスの鳴き声が聞こえてくる。昔はここから牛久沼が見えたらしいが、今は木々に遮られ見ることは出来ない。


正面入り口には古風な門があり、門の上段に龍の彫刻が施してある。また、水浄にも龍が施してあるが、これは金龍寺の龍をイメージしたものであろう。正面は本堂となっていて、その手前に地蔵菩薩像が建っている。

左側奥は歴代住職の墓と、新田義貞一族の墓が並んでいる。正門の左側は、おそらく檀家の寄進によるものであろう、真新しい六角観音堂と聖観音が建っている。更にその隣に鐘楼があり、朝の六時のときの鐘を鳴らしている。

龍の彫刻が施された金龍寺正門

星宮神社

金龍寺からふたたび街道を牛久方面に行くと、300mほどのところの左側に星宮神社が建っている。ひときわ木々が生い茂っている場所で、昼間でも薄暗く、訪れる人は少ない。

最初の鳥居を見上げると、しめ縄に男山と書かれた酒樽がぶら下がっている。若柴で酒が造られていたことを示すもので、毎年1月15日に奉納されている。

境内の奥には平貞盛ゆかりの駒止の石があり、古き歴史を物語っている。また、本殿の手前には山車庫が建っていて、次のように書かれている。「これは祭礼の時に飾り立て囃子方や踊り子も乗せて表の通りを太い綱で引いて賑やかに練り歩いたものであると云う」

往年の山車が保存されていて、若柴宿が賑わっていた頃は祭りも盛大であっただろうと、ただただ当時を偲ぶのみである。

しめ縄に吊された酒樽

牛久宿へ

宿場の面影が残るのは星宮神社迄で、この先はのどかな田舎の風景が続く。

高台のため水田は皆無で、落花生畑、芋畑そして花畑が広がっている。


若柴宿はこれで終わりだが、旧水戸街道はまだまだ続く。次の牛久宿迄は6キロ先である。