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文学で観る牛久沼

投げ込まれた一つの石は波紋となり、大きな輪を描く

夕陽に照らされて波紋はやがて、牛久沼の詩情となる。


1889年(明治22年)、近代俳句の創始者正岡子規は、牛久沼東岸の陸前浜街道新道(現国道六号線)を水戸に向かう途中、寒々とした沼の情景を次のように詠んでいる。

寒そうに鳥のうきけり牛久沼

後に小川芋銭は正岡子規の門下となり牛里と号して俳句を作るが、この時の子規は、芋銭と会うこともなく牛久沼で戯れる水鳥を眺めて通り過ぎる。

  小川芋銭は画聖とまでたたえられた画家で、河童の絵で有名だが、俳人としても多くの作品を残している。次の句は牛久沼を詠んだ代表的俳句である。

五月雨や月夜に似たる沼明かり

農民文学者の犬田卯は小川芋銭を師と仰ぎ、つねに尊敬の念を持っていた。そして芋銭の力添えで、当時「少女世界」などを出版していた博文館に入社する。

犬田卯は、さてどう詠んだか不明であるが、牛久沼を讃えたた随筆をたくさん残している。

住井すゑは少女時代、雑誌「少女世界」に作品をたびたび投稿する。そしてその作品は当時「少女世界」の編集者だった犬田卯の目にとまる。二人の間は急速に接近し、文通が始まり、やがて結婚へと発展する。

1935年、住井すゑが33歳の時、戦火を避けるとともに卯の病気療養を兼ねて家族そろって卯の郷里、牛久村城中(現在の牛久市城中町)に移る。そして牛久沼の第一印象を「これは大地のえくぼだ」と表現する。また、その時の心境を次のように言っている。

わがいのちおかしからずや常陸なる牛久沼辺の土と化らむに

住井すゑの牛久沼に於けるる文学活動がこの時点で始まり、そして1997年、95歳の生涯を閉じるまで牛久沼と共に生活し、数々の作品を残している。その中で『橋のない川』は人権の尊さと平等を訴えた作品で、住井すゑのライフワークに相応しい作品となる。

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