歴史で観る牛久沼/近世編

 江戸時代の牛久沼周辺

江戸幕府が開かれると250年以上にわたる平和と繁栄の時代が訪れる。牛久沼周辺においても信太郡には仙台藩領、牛久藩領、河内郡には幕府直轄領、谷田部藩領、相馬郡には相馬藩領と幕藩体制が築かれていた。  幕府は政治的中心の江戸と全国を結ぶため、東海道や日光街道など五街道の他にそれに準ずる重要な街道を脇街道と称して、多くの街道を整備した。龍ヶ崎・牛久方面を通過する水戸街道はその脇街道の一つで、特に徳川御三家の水戸と江戸を結ぶ重要な街道と考えられていた。そして当地方においては藤代宿、若柴宿、牛久宿の宿駅が設けられていた。その中でも牛久宿は水戸街道の真ん中にあたり、規模も比較的大きく、宿場の負担の増大が引き起こした農民の反乱、牛久一揆は郷土史の重要な位置づけである。  一方幕府は、生産力を上げるため、治水や開墾を奨励した。伊奈忠治の利根川の開削や小貝川の治水は見事に成功したが、桜井庄兵衛の牛久沼の干拓等は惨めな結果に終わった。このように牛久沼周辺においても、農地の開墾が盛んに行なわれた時代であった。  仙台伊達藩龍ヶ崎村は主に江戸仙台藩への食糧供給の中継基地として栄える。山口藩牛久村は水戸街道の宿場町として栄え、両村とも当地方の経済・文化の中心的存在であった。  江戸時代も後半になると生活・流通の変化、商品生産の拡大が、米を中心とした農本主義の経済方針と合わなくなり、財政難や農村の困窮を招いた。その上に、海外からの圧迫が拍車をかけ、ついに各地の尊皇攘夷派が幕藩体制打倒のため行動をはじめた。水戸藩の尊皇攘夷派が筑波山に集結、挙兵した天狗党の乱も、このような世情の中で起こった。慶応3年(1867)の大政奉還により、時代は明治へ移り近代化の時代へ向けて突っ走るのである。

伊達政宗とと竜ヶ崎

慶長11年(1606)、徳川家康は伊達政宗に竜ヶ崎の地を与えた。常陸国河内郡の竜ヶ崎村及び砂沼及び信太郡の13の村、合計1万石余りであった。何ゆえこの地が政宗に与えられたか明瞭でないが、おそらく家康は、武力政治力に優れ副将軍と言わしめたほどの政宗と友好を保つためと思われる。家康の六男忠輝と政宗の長女五郎八姫(いろはひめ)の婚姻などで、そのことを窺い知ることが出来る。

伊達藩は廃城となった竜ヶ崎城に変わり、現在の龍ヶ崎小学校付近に陣屋を置き、明治維新まで常陸国における領地を支配した。仙台藩伊達家による竜ヶ崎の統治は、代官を置き、その下に郡司・郡代を置き民政や財務に携わった。竜ヶ崎は仙台領の中で、江戸に最も近く、食料の供給基地として大いに栄えるのであるが、仙台領になった竜ヶ崎は、200年余り、民心は安定し、伊勢、近江、越後からも多くの商人がやって来て、町人文化が確立し、彼らは財を築き、町は大いに発展をする。伊勢から移り住んだ杉野氏はその代表格で伊勢屋治兵衛と称し油商や菓子商を営み財を成し町の発展に寄与した。後に杉野翠兄という俳人を輩出している。

幕末まで続いた陣屋は、仙台藩が戊辰戦争で朝敵となった為、常駐していた代官は急いで国元に引き上げた。その後、陣屋は何者かによって打ち壊しとなった。

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陣屋跡(龍ヶ崎市古城)

龍ヶ崎小学校正面入り口手前、龍ケ峰を背にして龍ヶ崎陣屋があった。

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武家屋敷長屋跡(龍ヶ崎市古城)

竜ヶ崎二高へ向かう坂道手前を右折したところに武家屋敷長屋が並んでいた。

龍ヶ崎市内を一望出来る愛宕神社(龍ヶ崎市立愛宕中学校隣)は、仙台藩2代目藩主・忠宗によって寛永18年(1641)建立されたと言われている。伊達家では代々愛宕神社を崇拝しており、領民の安泰と火災や災難除けを祈願したものである。

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愛宕神社

山口氏の牛久藩

由良氏改易後、牛久藩主としてやって来たのは山口重政であった。関ヶ原の戦い後、由良氏に代わって1万5千石を拝領し牛久藩主として封じられた。その後山口重政は徳川幕府の政争に巻き込まれ一旦は改易となるが、寛永6年(1629年)に大阪の陣の武功を認められ、再び牛久に封じられた。その後、重政死去に伴い、四男の弘隆が遺領を相続、その時に5000石を弟の重恒に分知したため、所領は1万石余りとなる。寛文九年(1669年)牛久陣屋は、二代目藩主山口弘隆によってに建てられた。以後、山口氏は代々牛久藩主として幕末まで継承された。

 

牛久陣屋について

牛久市城中町の一角、牛久沼を一望できる景勝地に河童の碑が建っている。実はその場所から後部の畑にかけてが陣屋跡である。 またこの場所は戦国時代の牛久城の一角にあたり、濠や土塁などの防衛施設跡が残っている。陣屋の敷地面積は約12,000㎡余りで、その中に御殿・長屋・蔵などが建っていた。

明治維新後も一時牛久県庁とし使用されたが、まもなく新治県に統合されたため、その機能を失った。

山口重政について

山口氏は周防の大内氏の出身で、周防山口の地名を採って山口氏とした。元々は織田信長の家臣の佐久間正勝に仕えていた。天正12年小牧・長久手の戦では織田信雄に従って徳川家康方につき、徳川氏とのつながりを深める。天正14年(1586)に叔父にあたる重勝の養子となって尾張国東部の星崎1万石の城主となる。その後織田信雄と共に配流の憂き目に合うが、秀忠によって江戸に召され、その家臣となり、上総国で5千石を与えられる。関ヶ原の戦い後、常陸5000石が加増された。

牛久陣屋跡(雲魚亭隣り)

水戸街道牛久宿

水戸街道の中でも、これほど歴史的に文化的に異彩を感じられるところは他にないだろう。牛久という町は、古くは岡見氏の居城があったところで、戦国末期には由良氏の居城となる。町場は岡見氏の頃から形成されていた。その町場は最初は「卯宿」あるいは「鵜宿」と呼ばれていたらしいが、「牛久」に変じたと言われている。江戸時代には山口氏の牛久藩のお膝元として、また水戸街道の中央に位置する重要な中継駅として栄える。

牛久宿を有名にした出来事は、なんといっても牛久宿郷一揆である。これは全国に広がる農民一揆のさきがけ的存在で、当時の農民の貧窮を物語っている。また筑波山を本拠とする天狗党の面々が大黒屋という旅籠に逗留した記録ものこっている。

さらに明治になると、明治天皇の牛久行幸という当時としては一大センセーショナルな出来事があった。それは女化原で行われた近衛砲兵大隊大砲射的演習の視察のため牛久を訪れたのであり、この時代、明治天皇は精力的に日本各地を行幸していたのである。行在所(宿泊場所)跡は牛久町(上町)に今も旧跡として残っている。

また、牛久宿は文学にも登場する。池波正太郎作品「鬼平犯科帳・雲竜剣」である。小説の中で、長谷川平蔵の剣友岸井左馬之助が牛久宿までやって来て、旅籠柏屋に泊る。柏屋は架空と思われるが、探索のために訪れた正源寺は実名で書かれているから興味深い。

更に明治以降になると、日本画家の小川芋銭が幼少のころ、牛久宿にあった寺小屋(現在は日蓮宗勧成院)で漢学を学んだと聞く。その芋銭は晩年、城中の牛久沼畔で過ごすのであるが、筆まめな彼は、友人との手紙のやり取りが多かったのだろう。牛久町(上町)にある牛久郵便局(現在の本牛久郵便局)を訪れるのが日常であった。住井すゑも然り。牛久宿の古い町並みを夫の犬田卯と共に歩いている姿がイメージとして浮かんでくる。 

大黒屋付近

牛久宿のかたち

江戸方面からの宿場の入り口直前はやや緩やかな坂道になっていて、登り切ったところに下惣門が建っていた。そこから道幅8mほどの道がまっすぐ北に続き、上惣門(水戸方面からの入り口)までの約800mの区画が牛久宿であった。ちなみに現在のJR牛久駅はここより約600m先で、国道六号線(現在の水戸街道)と合流すると、間もなく右手に見える。

ある文献に「駅路の出入口両方に途一杯の萱葺の門を建て、山口塁なる事を示せり、相応ある町にして道幅広く・・・」と書かれている。つまり下惣門、上惣門とも萱葺屋根の立派な惣門が建っていて、おそらく門の中央に山口と大きく刻まれていたのであろう。己が領地であることを旅人に知らしめるために。

牛久宿は下町と上町で構成されていて、中央には宿場の継立(つぎたて)を運営する問屋場(といやば)があり、また正源寺の入り口近くには大名旗本が宿泊する本陣(現、農協)が置かれていた。尚、脇本陣は存在しなかったようである。更に街道筋の両側には一般の武士や庶民が宿泊する旅籠屋、たとえば大黒屋、河内屋、麻屋、坂本屋など15軒の名だたる旅籠屋が建ち並び、その他、茶店、湯屋、鍛冶屋、足袋屋、質屋、建具屋、大工、桶屋、馬喰など様々な商工業者が立ち並んでいた。その数124軒と言われている(天保12年調べ)。ちなみに人口は497人と記録さている。(文化元年調べ)

一口に旅籠屋と言ってもピンからキリまであり、素泊まりの木賃旅籠屋や飯盛女を置いた飯盛旅籠屋などいろいろであった。飯盛女の仕事は、まず旅人の足を洗うことから始まり、食事時には飯を盛り酒を注ぎ、そして夜になると褥を共にする。つまり接待役という名の売春婦である場合が多かった。文政8年(1825)、幕府は関東取締出役令を発令し、飯盛女が派手な服装をする事や、みだらな風俗をする事を禁じたが、客の奪いあいが続き、なかなか守られなかったようだ。また、湯屋は公衆浴場のことであるが、そこには湯女がいて、湯女はお客の背中を流すだけでなく、売春行為に及ぶこともあったようだ。娯楽が少なかった当時、こういうところには近隣からも小銭を持った男たちが押し寄せたのだろう。とかく当時は、このような遊びに掛かる費用は今と比べると格段に安かった。

また、牛久宿には角屋という人足請負業があって、常時50人ほどの人足が詰めていた。彼らの多くは貧窮した村々からの出稼人、あるいは主家を失った浪人たちで占められていて、求められればどんな仕事でも従事したのであろう。このように牛久宿には、定住者のほかに、旅人や出稼ぎ人、遊興を楽しむ人が群がり、わずか人口500人弱の宿場は、その規模以上に賑わっていたと想像出来る。そして商店にはあらゆる物産が置かれ、牛久という小さな村は地方経済文化の担い手として栄えていた。

牛久宿の特徴

江戸時代の宿駅の主な任務は、公用の荷物の継立(つぎたて)、参勤交代に於ける宿泊場所の確保であり、宿駅が制定された当初は主に公用のものだった。やがて街道や宿駅が整備されると、一般の下級武士や商人までが旅を楽しむ機会が増え、宿駅は彼らの休息や宿泊施設として利用されるようになった。そして、宿駅に人の往来が増え、商品の流通が活発になり、商人や職人などが定住するようになると宿場特有の町空間が出来あがり商業都市として栄える。牛久宿の場合も然り、小規模ながら宿場町として繁栄するのであるが、その実体は民百姓の犠牲の上に成り立っていた。

 

水戸街道のちょうど真ん中に位置し、宿駅としても重要な役割を担っていた牛久宿。牛久宿を語るとき、水戸街道の中でも特出すべきことの一つとして、隣の荒川沖宿と合宿(宿場の任務を共に行う)の形態を採っていたことが上げられる。これは荒川沖宿は牛久宿と同じ牛久藩領であることと、荒川沖村の村高が少なかったため、牛久宿が、荒川沖宿の継立の任務の一部を担っていた。つまり、荒川沖宿では、上りの継立を牛久宿まで行い、下りは、牛久宿の継立が荒川沖宿を経て次の中村宿まで行っていたのである。そのため、牛久宿の負担は大きく、常設する人馬も、水戸街道の人馬の配置は普通、25人、25疋(ひき)の常設が義務づけられていたが、牛久宿に関しては50人、50疋であった。これらの宿場の任務を円滑に行うために問屋場(といやば)が置かれ、宿役人が交代で詰めていた。宿役人の代表格は問屋で、その補佐役の年寄、そして書記に相当する帳付、その他雑役人も何人も詰めていたのであろうが、牛久宿の問屋場業務は慢性的な人手不足で、そのため、助郷村(大名行列時人足を補うために指定されて応援の人馬を負担する近隣の郷村)への依存度が大きかった。

問屋場は、公用の荷物の継立と助郷の差配が主な仕事で、特に代表格の問屋は責任が大きく、藩の家老や幕府役人との折衝も必要で、村の有力者が勤めるのが常であった。そのため、牛久宿では村の名主、麻屋家が代々仕切っていた。

 

大名行列の時などは、藩から先触(さきぶれ)が問屋場に届き、行列の規模と日程を前もって知ることが出来きた。問屋場はそれによって、定助郷や加助郷を差配した。また、大名行列の規模が大きい時は、本陣や旅籠屋だけでは部屋割が出来ず、寺院を宿泊施設として利用出来るよう手配することもあった。一番やっかいなのは、大名同士の鉢合わせで、格式と体面を重んじる大名の気質を考慮し、大名側とねばり強く折衝し、宿泊が重ならないように調整する必要があった。このように問屋は山口藩領でありながら幕府の公用の仕事をしなければならず、また助郷村の百姓たち不満分子をうまく使う必要もあり、つねに中間管理職的な悩みがつきまとっていた。

 

当時の牛久地方の農村は、過酷な藩の徴収に年貢を納めきれず、耕地を捨てて村を出る農民が多く、荒れ果てた耕地が多かった。それだけに農民たちにとって年貢の負担は大きかったであろう。一方公用人馬の利用頻度は増える一方で、このような状況の中、問屋の麻屋治左衛門は定助郷の少なさを嘆き、数度にわたって助郷村の増加を幕府に願い出た。ちなみに、元文5年(1740)の取決めによると、牛久宿の定助郷村は7ヶ村、荒川沖宿3ヶ村となっていた。麻屋治左衛門の要求は認められ、加助郷村が増加されたのであるが、新たに加わった助郷村は牛久宿迄の距離が遠かったため、何かと難儀なことであった。この増助郷が問屋と助郷村の軋轢を生み、やがて牛久一揆という農民の反乱へと発展するのである。

牛久一揆

江戸と水戸を結ぶ水戸街道のほぼ中間に第九宿である牛久宿(牛久市)と第十宿の荒川沖宿(土浦市)がある。この両宿場町を背景に貧窮した農民たちの反乱、助郷一揆が起きる。世に言う牛久助郷一揆で、後世でも自由民権の先駆的なものと位置付けられている。

文化元年(1804)10月、女化稲荷を本陣として、信太郡(現在の竜ヶ崎市)河内(現在の牛久市及びつくばの一部)両郡の55か村の農民が女化原に集合し、一揆に立ち上がった。しかし幕府派遣の代官によってあっけなく鎮圧され、首謀者たちは拷問の末獄死となった。この一揆は女化稲荷を本陣としたため女化騒動とも言う。

背景

幕府のお膝元とも言うべき関東、とりわけ常陸国は度重なる大飢饉で農地は荒廃し、耕地を捨てて村を出る百姓が多かった。こうした人口の減少は更に荒地の増加に繋がり、当然のごとく年貢米にも難儀をきたすこととなる。

更に、常陸国には往来の激しい水戸街道があり、多くの村々は宿場あるいは助郷村として、国役、伝馬役、人足とさまざまな課役を加せられ、村々の難儀は更に増すことになる。

牛久宿(牛久市上町)

一揆の発端

江戸時代の重要な街道の宿場は、公用の荷物や書状を伝達するために定められた人馬の数を常設して置かなければならなかった。しかし次第に使用される人馬の数が増し、宿場だけでは定められた人馬を負担出来なくなり、宿場周辺の村々に定助郷や加助郷といった。助郷役が課せられた

当時、牛久宿には周辺の7か村(勤高合計589石)が、荒川沖宿には周辺3か村(勤高合計598石)がそれぞれ助郷村としてして指定されていた。

しかし、通行の増加と度重なる災害で宿は次第に貧窮していった。天明の飢饉の際には、牛久宿と荒川沖宿は助郷村の増加を幕府へ要求したところ、10年に限って、34か村の加助郷村が割り当てられた。ところが新たに割り当てられた助郷は遠方で1日の課約に往復を含め3日も費やさなければならず、そこで人馬を提供する代わりに金銭で代納するようになり、宿では人馬請負業者が羽振りをきかすようになった。その人馬請負業者の代表格が名主和藤治である。和藤は私利私欲のため、約束の10年が過ぎても追加34か村の助郷の任務を解くどころか、阿見村の組頭権左衛門と牛久宿問屋麻屋治左衛門と謀って幕府に願い出、更に助郷を拡大しようとした。それを知った近隣の助郷村の間から3人を憎む声が高まった。

一揆の経緯その一

10月17日の夜に女化原への結集を呼びかける張札が助郷の対象となった村々の高札場に掲げられた。その文面は、「水戸往還牛久宿助郷の義に付き、明18日女化稲荷の社地に於いて出会仕り度く候間、其意を得らるべき候。若し不参の村方へは大勢推参仕るべく候」となっていた。つまり、18日に15歳から60歳までの男は女化稲荷に集まって下さい、もし参加しない村があれば、その村へ大勢で押しかけるぞ、と言うような内容であった。一揆の頭は、小池村(現阿見町)の勇七、同じく小池村の吉十郎、桂村(現牛久市)の兵右衛門の三人で、 勇七は「この度、大勢の皆様を相招きしことは、兼ねてより張札場に廻文の通り近隣村々の末迄の困窮を救わんためである。先頭となって我等戦うは百六ケ村のためであり、そのために捨てる命、如何に惜しからん。各々少しも気遣うことなかれ」と声を張り上げて同意を求めた

 

18日の朝は、小池村(現阿見町)、桂村(現牛久市)の最寄の百姓が会談、19日未明女化原に約500人が集合、夜には6千人にも膨れ上がった。参加者の村々は、南は薄倉村(現竜ヶ崎市)北は青宿村(現阿見町)、東は蒲ヶ山村(現江戸崎町)、西は手代木村(現つくば市)に及び、大名領、天領、旗本知行地という複雑な支配関係を乗り越えて、その数は55か村に膨れ上がった。

一揆の本陣を女化稲荷神社の神前に構え、竹槍数百本を立て並べ、石の鳥居の内へ「女化会所」と太文字で書かれた六寸角の柱を立てた。そして指導者達は神前に於て水行をし、成功の祈願をした。

一揆の経緯その二

一方、牛久宿へは、19日続々と不穏な情報が集まってきた。農民たちの数が膨れあがり大規模な一揆になることを察し、「論所地改役手代」の太田幸吉・鈴木栄助は江戸へ早馬で御注進状を送った。また、土浦城(土浦藩)、谷田部陣屋(谷田部藩)、龍ヶ崎飛領陣屋(仙台藩)に対して応援の兵を要請した。村役人に対しても、至急牛久本陣に集まるよう、呼び出し状を廻した。牛久藩主山口周防守に対しても注進状を送り、陣屋付き14か村へ15歳以上60歳以下の男子を牛久宿へ集めるよう命令し、一揆勢へ備えを教化した。

一揆の経緯その三

  

19日、勇七たち頭取は、女化稲荷の前に一揆勢を揃えさせ、女化稲荷に神のご加護を祈願し、合い言を『おなばけ』とした。

まず、最初は久野村の和藤治宅を襲撃する事とした。頭取たちは、近隣への迷惑を掛けない事と掠奪の禁止を皆々に約束させた。その結果、一揆勢は和藤家を徹底的に打ち壊したが、相手には決して危害を加える事なく女化稲荷に引き上げた。

翌20日、勢いに乗った一揆勢は牛久宿問屋麻屋治左衛門を襲撃し、続けて牛久本陣へ向かったが、厳しい警護のため襲撃を断念し、一旦女化稲荷へ引き上げた。

翌21日には阿見村組頭権左衛門宅を打ち破ったが、土浦藩兵などによる鎮圧兵が牛久宿へ向かっているとの情報を得、これ以上戦いの困難な事を悟った。そこで農民たちは、早々と解散し自分たちの村へ帰っていった。

鎮圧

幕府は近隣諸藩に鎮圧を命ずるとともに、3人の代官を派遣し徹底弾圧に乗り出した。

 

3人の代官は26日から27日にかけて若柴宿に到着し、其処に陣をかまえ、一揆の首謀者の捜査に取り掛かった。彼らは和藤治ら打ち壊しの被害者を利用することを考え、26日の夜、和藤治らが密かに付けた見印の紙を目当てに、捕方は100人もの百姓を捕らえた。11月3日になると、本格的な吟味を行うため、若柴宿の仮陣屋から上郷村(現つくば市)の角内陣屋へ取締本部を移し、江戸から評定所の留役が尋問のため出張して来た。そこで、勇七、兵右衛門、吉十郎の3人が白洲に引き出され厳しい詮議が執り行なわれた。その後、彼らは江戸伝馬町の牢獄に送られ、厳しい拷問の末、翌年(文化2年)1月8日に兵右衛門が、翌9日に勇七が、23日には吉十郎が判決を待たずして獄死した。判決の内容は勇七は獄門、吉十郎、兵右衛門は島送りだった。一揆に参加した55か村に対しては、それぞれ重い加料金(罰金)が課され、また和藤治も江戸十里四方追放となった。

供養塔

県道48号線(土浦~竜ヶ崎線)を土浦方面へ向かうと、その道は県道とは名ばかりで、寺子交差点(阿見町)を過ぎた辺りから道幅は極端に狭くなり、田園風景が広がり、その先の木々に覆われた一角に阿見町一区南交差点(十字路)がある。

その南東角に目立たないが小さな小屋が建っていて、その隣に阿見町教育委員会による案内板が添えてある。 小屋の中には1メートル足らずの石塔があり、その前には誰かの手によって花が添えられている。石塔は風化がひどく殆ど解読不可能だが、案内板によると「牛久助郷一揆道標」と大きく書かれ、『東、西、南、北、』の方角と、『じっこく(実穀)こいけ(小池)おかみ(岡見)りゅうがさき(竜ヶ崎)』の地名の他に、一揆の指導者3人の没年月日と戒名・俗名が刻まれていることが分かる。つまり、この塔は供養塔を兼ねた道しるべなのだ。

更に案内板によると、文政六年(1823)さきに打ちこわしを受けた麻屋家がこの道標を建立したと書いてある。皮肉にも、前述の牛久宿問屋麻屋治左衛門が建てたのである。

治左衛門はその後も宿問屋として牛久宿の代表格であった。何か心に帰するものがあったのだろう、3人の供養塔を建ててそれを祭った。それは農民感情を和らげる為だったのか、亡者に呪われた己の心に救いを求める為だったのか定かでないが、その後も勇七、吉十郎、兵右衛門3人の菩提を弔う「永代施餓鬼」を行うための万人講修業の許可を願い出たと言う。

時の流れと共に、3人の供養塔は風化してしまい、一方、一揆の舞台となった牛久宿の町並みは姿を変え、上町の行在所付近に僅か宿場の面影を偲ぶだけである。しかし、この事件は、その後の農民一揆の先駆的な位置づけとされ、また「牛久騒動女化日記」「女化原夢物語」等の書物によってその史実が記録されている。

農民が暮らしにくい時代を生きるために、エネルギーを爆発させ、そして死んでいった勇七、吉十郎、兵右衛門3人の事は郷土史の一頁としていつまでも語り継がれるであろう。供養塔に添えられた花々がその事を物語っている。

阿見町一区、道しるべの供養塔

供養塔の小屋

頭取(一揆の首謀者)3人のプロフィール

 
勇七
小池村、42才、田畑五六十石、山林二三十町歩も所有し、筋目正しき有徳者、算筆弁舌に勝れ武芸を好んだと言う。
吉十郎
吉重郎とも書く、小池村、38才、算筆弁舌に勝れ武芸を好み、特に弓を曳いた。
兵右衛門
桂村、40才、村役人ではないが、なんらかの形で武家奉公したことがある。一揆指導者として他の二人より、積極性を持つ人物として伝えられている。

成井一里塚

若柴宿から牛久方面へ向かう途中の落花生畑や芋畑に囲まれた長閑な台地上の成井地区(牛久市)に、真新しい案内板と石碑が建っているのが目に付く。日本橋から数えて15番目の一里塚、成井の一里塚の目印である。道の両側に僅か塚のかたちを留めているが、案内板がない限り、誰もそれが一里塚だと気がつかないだろう。

案内板によると、成井の一里塚は平成13年6月22日に牛久市の指定文化財に指定されている。そして石碑の建設は平成14年3月1日となっている。

一里塚の本格的な始まりは1604年(慶長9)で、徳川家康が秀忠に命じ、各街道の整備のため里程標を作らせたことに依る。水戸街道はそれ以降整備されていので、成井の一里塚が作られたのは更にそれより後と考えるのが普通である。ところが信じがたいことだが、更に案内板を読むと「この一里塚は永禄4年(1561年)には既に存在した」と書かれている。戦国のまっただ中である。一里塚の歴史を調べてみると、最初は古代中国で始まったらしい。日本では織田信長が分国内に作らせた一里塚の存在がある。この事を考えると成井の一里塚も、一里塚という名称がふさわしいかどうかは別として、永禄年間に作られていたとしても不思議ではない。しかし、誰が何の目的で。

水戸街道が整備される以前にも古道と言われる街道の存在があった。若柴宿から牛久宿を結ぶ街道も戦国時代は、若柴城と牛久城を結んでいたに違いない。そして牛久城から先は、城下の手前を右折し、土浦、更には石岡方面へと続いていたのであろう。一方若柴城の先は龍ヶ崎、江戸崎、更には千葉方面へと、江戸時代の水戸街道とはまったく別のルートを採りながら街道は続いていたのであろう。その中で成井の一里塚は、ちょうど若柴城と牛久城の中間地点に位置するのである。恐らく牛久城主岡見氏の命令で、盛土、あるいは小屋のような建造物を建てていたのかもしれない。それは後の一里塚の役割と違って、お互いの城主への伝言を受け取る中継場所となっていたと考えるのだが、あくまでも憶測である。そして江戸時代に水戸街道が整備され、各地に一里塚が設置されるようになると、偶然にも成井の一里塚は日本橋から数えて15里目に当ったのか・・・・?。

史跡・成井一里塚の形態は、まず、道の東側(牛久方面に向かって右側)は奥行き10m、幅12m、高さ1.2m。茅と雑草で覆われていて、実に殺風景と言うか、たんに土が盛り上がった状態としか思えない。ただ遠くからの見通しが西側よりも良く、石碑と案内板はこちら側に建っている。一方西側は、奥行き13m、幅6m、高さ2m(東西いずれも目測)で、道に面した部分の欠落が著しいが、奥行が深く、盛り上がった部分に松が数本と椿が植林されている。栗林と隣接するため、あまり目立たないが、僅かながら一里塚の風情を偲ぶことが出来る。

多くの一里塚が長年の時を経て風化、あるいは道路拡張工事のため姿を消してしまったことを思うと、ここは道の両側にそれらしき形を留めていて、貴重な歴史の証人と言えるだろう。

 

さて、一里塚とは、名前が示すとおり里程標であり、馬やカゴの料金計算の目安となっていたのだが、目印として榎や松が植えられていたため、旅人の格好の休息場所となったのは言うまでもない。その当時の人の歩行距離は1時間4キロ、1日の歩行距離は平均約33キロで、車社会の現代人からみれば想像も付かないぐらい健脚であった。行く先々で人情や風情にふれながらののんびりした旅。喜びとともに心身の疲労も激しく、一里歩けばまたその先の一里と、心に刻みながら歩き、行く手に聳えている榎を見つけたときは、ああ、一里塚だ!と安堵感と喜びをかみしめ、履きつぶしたワラジの交換を考たりしたのだろう。風流な旅姿であった。

成井一里塚跡

水戸街道藤代宿

藤代宿の概要

水戸街道の取手に次ぐ7番目の宿駅。実際には、藤代宿と隣接する宮和田宿の二つの宿駅で、一つの宿駅の機能を分担していた。現在はちょうど両宿の間にJR藤代駅があり街道は駅前を鋭角にカーブしていて、北に500m程のところに藤代宿があり、東に600m程のところに宮和田宿があった。一般にはこの両方の宿場を合わせて藤代宿と呼んでいた。宿場の規模は、石高1803石で、の規模の宿駅で公用の人馬として通常人馬25人、25匹を常備していた。助郷村は天保11年(1840)の記録では村数29か村、石高19000余。加助郷村は明和元年(1764)の記録で33か村、石高12965となっているが、時代によっては食い違いがあるので参考程度に考えて欲しい。これらを2宿がどのように分担し運営していたのか分からないし、なぜ、本陣や問屋場が両宿に置いてあり、交互にその任に当たっていたか分からない。とにかく謎の多い宿場町である。

宮和田宿

越すに越される小貝川。当時の小貝川は下総国と常陸国の国境で、その国境越えのための宮和田の渡し場がこの宿場にあった。大雨が降ると宿場全体がぬかるみ、川は氾濫し、多くの旅人はこの宿に足止めをくらったことであろう。いつ出るか分からない渡し舟を旅籠の一室でじっと待ちわびる旅人の姿が浮かんでくる。

小貝川は、昔から氾濫の絶え間ない川で、今日においてはしっかりとした堤防が築かれ氾濫することはあまり考えられないが、昔は想像を絶するほど氾濫が多かった。そんな事もあって、小貝川には橋が架けられなかったのかもしれない。宮和田宿に関する文献は皆無に等しいが、正徳五年(1715)の書物『駅路鞭影記』によると、小貝川の渡し賃は二文で、宿場にはうどん、そば切を売る店があったと書かれている。宮和田宿の本陣、問屋場がどこにあったか、見当もつかないが、舟待ちの旅人で賑わっていたはずである。

小貝川、宮和田の渡し付近

遠方に見える橋は文巻橋で、この川を渡ると常陸国である。

宮和田宿

直進すると、道が細くなり、その先は土手で、かつて宮和田の渡し場があったところである。

左に曲がると国道六号線文巻橋へ出る。

藤代宿

街道筋は相馬神社のところで直角に曲がっている。その角に坂本呉服店が昔ながらの屋敷を構えて商いをしている。宿場の名残を感じるのはこの場所だけであろう。本陣は近年まで、その雄姿を誇っていたが、昭和30年の町村合併時に町役場建設のため建て壊された。屋敷は木造萱葺屋根で質素であったが唐破風造りの玄関は本陣の風格を備えたりっぱなものであったと記録されている。現在は近代的な藤代中央公民館に変わっている。時の流れとはいえ、こういう建物が行政の力で解体されるとは、とても残念である。往年の本陣は、広大な敷地を誇っていたようであるが、たびたびの小貝川の改修工事で、大きく敷地を削られたと言う。その本陣は、代々飯田三左衛門の子孫が管理していた。

 藤代宿は、本陣のほか、脇本陣、問屋場、旅籠、湯屋、商家が建ち並び、結構賑わっていた。その場所は現在も藤代町の中心部にあり、JR藤代駅から続く街並みは新旧の商店が混在している。

藤代宿、坂本呉服店前

生前の住井すゑさんのお気に入りのお店で、彼女が若い頃は牛久から約8kmの道のりを歩いて通ったという。

本陣跡、現在は藤代中央公民館

すぐ裏は小貝川の土手になっている。

取手から藤代までの街道

江戸時代初期の水戸街道は、我孫子から利根川に沿って布川、須藤堀、そして若柴宿に至る迂回路だった。ところが伊那忠治による治水の進展により、取手・藤代間の湿地帯が次第に水田化し、貞亨年間(1681~1688)にかけてここに新たに道が設けられた。このことにより、藤代は水戸街道の宿駅としての機能を持つようになったのだが、しかし、取手宿~藤代宿間の街道はとにかく悪路であった。地盤が悪いため、ちょっとした大雨でも路は泥濘、とても歩けた状態ではなかった。そのために本道のほかに下記の通り三通りの廻り道を必要とした。

本道り
取手宿→長兵衛新田→吉田村→小泉村→酒詰村→米田村→谷中村→藤代宿(現在陸前浜街道と呼ばれている道)
中通り
取手宿→井野村→酒詰村→谷中村→藤代宿 (現在のJR常磐線に沿っている。)
水戸往還椚木廻り道
取手宿→l桑原村→毛有村→椚木村→藤代宿 (中通りより500m程北側、国道6号線にやや近い)
大廻り道
取手宿→寺田村→和田村→小貝川堤防沿→藤代宿(岡堰の方まで迂回し、小貝川に沿った道)

伊奈忠治の治水

概要

 

小田原北条氏のあとを受けて関東に入国した徳川家康は基盤となる領国の経営に乗り出し、荒れ地や湿地帯などの改良で農地の拡充、肥沃化に力を注いだ。 鬼怒川と小貝川の分離や、新利根川の開削はその一環で、その中に牛久沼の治水工事も含まれる。

そもそも牛久沼は、面積の広さの割には水深が浅いため集水能力が低く、洪水を起こしやすい沼であった。度々の氾濫で沼の周辺、特に小貝川との狭間の低地部分は菅場谷原と呼び、一面湿地帯だったのである。

この菅場谷原を干拓するためには、小貝川の水とともに、牛久沼の水を制御する必要があった。その工事を請け負ったのが幕府方関東郡代伊奈忠治であった。

そのためにまず、水抜堀として江川が開削された。その後江川は用水路の性格が強くなってゆくが、本来は水抜堀であった。しかし、水抜抜堀としての江川は牛久沼の水を排水するには不十分な施設であった。

伊奈忠治はそこで、寛永四年(1627)弥左衛門新田(藤代町)から小貝川にかけての新水抜堀を開削した。当初新川と呼ばれていたが、堀幅の長さが八間だったので八間堀と呼ばれるようになる。また、その後新しい八間堀が出来たため、古八間堀と呼ばれるようになるが、だいぶ先の話なので、ここでは八間堀と呼んでおこう。尚、新川は今でもも地名として残っている。 まずは、八間堀のお陰で牛久沼の排水能力は高まり、菅場谷原の新田開発が急速に進められたのである。

しかし一方、江川を用水路として利用していた下流の龍ヶ崎村など三ヶ村は、このままでは用水が不足する恐れがあるので八間堀の川口を築留めとするよう忠治に訴えた。幕府は検分のすえそれを認め、八間堀を築留めることと、用水を自由に引くことを認めたのである。

しかし、八間堀を築留めとしたのでは排水能力が著しく低下し、ふたたび萱場谷原が牛久沼の氾濫に遭う恐れがあるので、そうした被害を守るために、沼の西側を南北に堤防を築いたのである。この堤防は八間堀口から福岡村(現谷和原村)まで続き、その長さから二千間堤と呼ばれるようになった。

こうして、二千間堤のお陰で萱場谷原一帯は水害から免れるようになったのであが、こうした牛久沼の治水工事を巡る争いはその後も延々と続くのである。

伊奈忠治(1592-1653)

伊奈忠次の次男で、父に河川工法を学び、若くして大規模な治水事業に挑んだ。

利根川の東流工事、小貝川と鬼怒川の分流工事、福岡堰・岡堰・豊田堰の築造などの当地方の主な治水工事の指揮をする。そのほかでも荒川と利根川を分離し、荒川一帯の新田開発を進めるなど、治水工事に著しく凄腕を振るった。

1642年には、のちに関東郡代と呼ばれる職に就いて、その後は伊奈家の世襲となる。

参考文献、龍ヶ崎市史、近世編

間宮林蔵

間宮林蔵とは

間宮林蔵(1780~1844)言うまでもないが江戸後期の北方探検家である。この間宮林蔵が、常陸国筑波郡上平柳村(現在の伊奈町)の農民の子として生まれたのである。8才の頃は寺小屋へ通い、14才のころは隣村の海老原庄右衛門から算術を習ったという。

農家としては比較的裕福だったのであろう。勉学心旺盛の林蔵は近くの岡堰の工事を見に行ったのであるが、見るだけでは飽き足らず、その工事に従事したことから、林蔵の人生は大きく変わった。幕府普請役下条吉之助に、数学的才能をみとめられ江戸に出る事となった。江戸では村上島之允に地理学をまなんだ。

林蔵が20才になると村上島之允の従者として初めて蝦夷地に渡った。1799年(寛政11)の事である。翌年、函館において伊能忠敬に弟子入りし、測量術をまなんだ。

1803年(享和3)東蝦夷地、南千島の測量し、のち御雇同心格となる。1808年(文化5)には松田伝十郎とともに樺太を探検。樺太が離島であることをはじめて確かめたことにより、間宮林蔵と言う名前は不滅となる。樺太と大陸の間の狭い海峡をシーボルトが間宮海峡と名づけたため、現在も地図に名前がのこっている。その後は幕府役人として東北・伊豆諸島などの調査にあたった。

晩年の林蔵は幕府隠密として働いていただけに、この人の栄光に暗い影が付きまとう。シーボルト事件の密告者として彼の経歴に傷がついてしまった。いや、凍傷によって醜く爛れた彼の顔と比べれば、些細なことなのだろうか。北方謙三著 「林蔵の貌」に登場するアウトロー的なヒーロー林蔵に深い感銘を受けるのであるが・・・・・。密告者林蔵。はたしてシーボルト事件の真相は如何なるものか。彼の名誉のために、歴史の真実のために、今も真相究明が続いているという。

岡堰

新岡堰が下流に出来て機能を失った旧岡堰の残骸。

間宮林蔵の業績を讃えた像は川の中の孤島に取り残されたままとなっている。

林蔵の生まれたととろ

専称寺

伊奈町上平柳。小貝川の土手を降りると、田園が広がる。土手道を背後にして専称寺という古刹がある。間宮林蔵が幼少の頃、この寺でよく遊び、よく学んだと言われている。門をくぐって左手に林蔵の偉業を讃えた立派な顕彰記念碑が建っている。更に顕彰記念碑の裏側、小貝川の土手を背にして林蔵と両親の墓があった。

間宮林蔵と両親の墓

あの偉大なる間宮林蔵の墓にしては、ずいぶん庶民的である。 上平柳村の百姓として生まれた間宮林蔵は、運良く武士とっなって数々の名声と富を得たのであるが、死んでしまえばただの百姓だったという事か。実はこの墓は間宮林蔵が決死の樺太探検前に、自ら建てた墓で(写真左)、その隣に父母の墓もある。(写真右)墓の背後は小貝川の土手道である。

間宮林蔵の生家(復元)

土間

間宮林蔵の生家、と言っても復元でされたものである。林蔵は安永9年(1780)年この家で生まれ15~6歳までここで暮らしたと言われている。 百姓家らしく萱葺屋根に縁側付き。土間は広く、その奥に竈が置かれている。土間に面して板の間が二部屋あり、奥の方は掘りごたつが備えられている。全部で4部屋の間取りで、そのうち1間は畳の部屋となっている。当時の百姓家としては立派な方であろうか、現代風に言うとちょっと大型の3LDK言ったところであろう。

間宮林蔵記念館

生家の隣に鉄筋コンクリートの資料館が建っている。入場無料が嬉しい。間宮林蔵に関する資料がここに集結。

上平柳の風景

筑波郡上平柳村。こんな長閑な田園風景に囲まれたところで林蔵は育ったのである。いえ、当時は毎年のように襲ってくる水害に悩まされ、長閑さを感じるゆとりはなかったであろう。聡明な林蔵は幼少の頃から自分なりに水害から身を守る方法を考えていたのかもしれない。

水神宮

間宮林蔵の生家の直ぐ近くに水神宮があった。やはり水神に対する畏怖心からであろう。小貝川周辺には水天宮とか水神宮が多いが、その殆どが小さな祠である。ところがここの水神宮は格別立派な本殿が建っていた。もしかして林蔵のなせる業?

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