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金龍寺

沿線(寺報 金龍寺沿線より)

太田山金竜寺は、一都九県に亘つて末派寺院150有余を有する曹洞宗の寺院である。

この寺の開基は新田義貞の孫貞氏で、祖父の霊を慰め、その勲功を永遠に伝えるため、応永14年(1407)上州太田の金山に建立されたものである。

開山は曹洞宗の逸材天真自性禅師(高祖道元禅師より7代目)の流れを汲む在室長端禅師(開基貞氏の曽孫)となってている。

金竜寺は新田家の菩提寺で、本堂には新田家の仏壇が設けられており、境内には新田家累代の墓所がある。

金龍寺創建より180余年を経た天正16年(1588)新田家の後裔由良国繋が、故えあつて金山城から桐生城に移ったとき、寺も一時桐生に移転された。

越えて天正18年(1590)秀吉が小田原城を攻めた際、国繁の母(得月院日海妙印大柿)は敵北条軍を迎え撃ち抜群の軍功をたてたかどにより、国繁は常州牛久城主に転封されることとなったた。この時金龍寺も牛久へ移った。

牛久城中の得月院に寓居していた時代は極めて短期間で、やがて由良家と祖を同じくする岡見家の菩提所新地へ移ることになった。

関ヶ原合戦後、山口重政なるものがこの戦いの論功により牛久城主に任ぜられてからは、金龍寺は新地を離れて現在地(若柴)へ移ったたのである。時に寛文6年(1666)のこと。

天保4年(1833)若柴宿大火の際、金龍寺も類焼の厄に遭つたが、壇信徒の熱烈なる協力により、20余年後の安政5年(1858)漸(焼失堂塔の再建をみ今日に至つている。

この寺には、求道のため入宋した道元禅師が帰朝の折、時の皇帝から贈られたと云う画聖季竜眼の筆になる16羅漢の面幅(重要文化財)がある。また新田義貞転戦中その身代りとなって安全を建ったと伝えられる藁干観音、牛小僧縁起にまつわる牛の尻尾で作ったた弘子など、かずかずの寺宝がある。

以上、寺報より

因みに、この寺の寺号は義貞公の法名「金龍寺殿真山良悟大禅定門」の「金龍寺」をとつたものと伝えられる。

金龍寺山門

金竜寺寺宝、十六羅漢像図

十六羅漢像図は画聖李龍眼の画いたもので、道元禅師が南宗より帰朝折、時の皇帝理宗から送られた。最初は道元禅師開基の越前永平寺に置かれていたが、鎌倉建長寺開山の蘭渓道隆に贈られ、その後執権北条氏の物となる。新田義貞の鎌倉攻めの時、新田氏が戦火の中で入手、その後、新田氏の菩提寺である上州金龍寺に寄せられた。今では若柴金龍寺の寺宝である。
大正6年4月5日 国指定文化財に指定された。

この文化財を茨城県教育委員会は次のように評価している。
羅漢図の表現は、繊細な描線で謹直に描かれ、特に服飾にみられる諸色金泥をもちいた精巧な文様が特色です。
 概して描法は和風化されています。おそらく道元請来本を転写したものと推察される本画は、新田義貞が執権北条高時を滅ぼした元弘3年(1333)頃の14世紀前半の制作と思われ、16幅揃った羅漢図の古作として当地きっての遺作であり、美術史的価値は高く評価されています。

十六羅漢像図
国指定重要文化財 茨城県立歴史館寄託

新田義貞とは

新田氏は上野新田荘を本拠とする豪族で、東接する下野足利荘の足利氏と同じ源氏義国からでた武家の名門であった。しかし北条氏の執権のもとでは足利氏よりも冷遇され、あたかも足利の一氏族のごとく軽視される。源氏再興の夢を賭け、足利尊氏と共に戦い、鎌倉幕府を攻め滅ぼしながらも、尊氏と対立する根源はそこにあったのである。

義貞の人間像は、足利尊氏よりも軍略、知略にすぐれつつも、正じき者で無骨で純粋な男、典型的な板東武士であった。そのような性格が災いしてか、それとも単に勝機に恵まれなかっただけか、偉大なる歴史のヒーロに成り損ねた悲運の武将である。

東部鉄道太田駅前の 新田義貞と弟の脇屋義助像

(写真提供 太田市在住佐々木さん

義貞の略歴

1301(正安3)上州上野の国世良田に生まれ、幼名を小次郎と名乗る。
(幼年期、少年期の記録は殆ど無い)1333(元弘3・正慶2)生品神社で弟の脇屋義助とともに挙兵。稲村ケ埼から鎌倉へ突入し、北条軍を攻め落とし、鎌倉幕府を滅亡させる。建武新政で功臣として遇せられ、従4位下、越後の守の位を授与す。1334(建武1)武者所頭人となる。1335(建武2)足利尊氏と対立。箱根竹の下の合戦で尊氏軍と戦い破れる。1336(延元2・建武3)足利軍を破り尊氏を九州へ遁走さすも、再起した尊氏に兵庫の戦いで敗れ、越前金ヶ埼城へ遁走。
(ここが歴史の分岐点。義貞に勝機は十分あったにも関らず、不幸にも彼の上には軍略音痴の公卿がいたからである。すべてを義貞に任せていたならばら、傷ついた尊氏など敵ではなかったはずである。)1337(延元2・建武4)金ヶ崎城落城。山城へ逃れ奮戦す。1338(延元3・暦応1)越前藤島(灯明寺畏畷)で討死。

義貞の略歴

  • 1301(正安3)上州上野の国世良田に生まれ、幼名を小次郎と名乗る。
    (幼年期、少年期の記録は殆ど無い)
  • 1333(元弘3・正慶2)生品神社で弟の脇屋義助とともに挙兵。稲村ケ埼から鎌倉へ突入し、北条軍を攻め落とし、鎌倉幕府を滅亡させる。建武新政で功臣として遇せられ、従4位下、越後の守の位を授与す。
  • 1334(建武1)武者所頭人となる。
  • 1335(建武2)足利尊氏と対立。箱根竹の下の合戦で尊氏軍と戦い破れる。
  • 1336(延元2・建武3)足利軍を破り尊氏を九州へ遁走さすも、再起した尊氏に兵庫の戦いで敗れ、越前金ヶ埼城へ遁走。
  • 1337(延元2・建武4)金ヶ崎城落城。山城へ逃れ奮戦す。1338(延元3・暦応1)越前藤島(灯明寺畏畷)で討死。

新田義貞の墓

新田義貞は南北朝の戦いにより越前藤島(福井県福井市新田塚町)にて足利軍に敗れ討ち死する。そして亡骸は称念寺(福井県坂井市)に埋葬された。1338年(延元3/建武5)

室町時代中期、上州太田(群馬県太田市)金山城の重臣横瀬貞氏は城内に祖父新田義貞の菩提寺金龍寺を創建の為、文明年間(1469-1486)称念寺より遺骨を移し墓を建てた。当時の金山城主は岩松家純であったが実権は横瀬貞氏が握っていた。

戦国中期、貞氏から数えて6代目の横瀬泰繁の代になると下克上により、横瀬氏は名実ともに金山城の城主となる。1565年(永禄8)頃。この頃から横瀬氏は本拠地である由良の荘を採って由良と名乗るようになる。

泰繁の子由良成繁の代になると、小田原北条軍が金山城を攻める。攻防の末由良氏は北条方に下り嫡男国繁は人質となる。そして城を明け渡し桐生城へ本拠を移す。それに伴い金龍寺も桐生城内へ移す。

1590年(天正18)羽柴秀吉軍が小田原城を攻撃。成繁亡き後、城主のごとく活躍したのが、成繁の正室赤井氏(妙尼印)であった。前田利家が上野国松井田城を攻めると、赤井氏は孫の貞繁(国繁長子)を大将として秀吉方として参戦した。(他説あり)

北条氏滅亡後、由良氏は前述の功績によって、秀吉から常陸国牛久5,400石の領地を与えられた。こうして由良国繁は岡見氏滅亡後の牛久城の城主となったのである。

当初、金龍寺は現在の得月院(牛久市城中町)に置かれたが、直ぐに岡見氏菩提寺であった東林寺(牛久市新地町)に移し、東林寺を金龍寺と改めた。   

ところが由良氏の牛久城主の座は国繁一代限りであった。1611年(慶長16)国繁没後、その領地は没収となり嫡子に相続権は許されなかった。その真意は謎であるが、新たに牛久藩主となったのは関ヶ原及び大坂の陣の功労者山口重政だった。

牛久城は廃城となり、山口氏は城を持たず陣屋にて藩の運営をした。一方由良氏は僅かな所領を許され末長く存続し、明治になると姓を新田と改めた。

寛文6年(1666)金龍寺は幕府の庇護のもと牛久藩領外の若柴の現在の場所に移された。旧金龍寺は岡見氏の菩提寺東林寺として再興された。

金龍寺境内裏手にひっそりと並んだ四基の五輪塔。向かって左端が新田義貞の墓である。

このように、義貞の墓は越前国称念寺から数奇の運命を経て常陸国若柴金竜寺に変遷され、現在に至ったのである。

尚、福井県丸岡町の称念寺には屋根付きの立派な義貞の墓が今も残っていて、県指定史跡となっている。更に群馬県太田市の金竜寺には新田義貞三百回忌法要に際し造立された立派な供養塔が建っている。それらは義貞にとって由緒深いところで、彼の事跡を振り返るに於て意義のある史跡と言えるが、いずれも再興されたものである。つまり、ご当地金竜寺に祀られた五輪塔こそ正統な流れを汲むものであるが、新田義貞にとって、常陸国若柴は無縁の地であるがために、史跡として軽んじられている。しかし、今も金龍寺は新田家の菩提寺で、累代の墓の他本堂には祭壇室があり位牌が置かれている。春と秋の彼岸には東京方面から新田家がお詣りにいらしていると聞く。

上州大田の金龍寺

写真提供 太田市在住 佐々木さん

牛久市城中得月院

得月院境内 妙印尼の墓

旧水戸街道若柴宿の一角、新田義貞の墓は金竜寺本堂の裏手にひっそりと佇んでいる。周りは竹薮で囲まれていて薄暗く、訪れる人も少ない。ああ、これが義貞の墓か、と思わせるほど貧弱であるが、幾多の風雪を耐え忍んだ歴史の重みを感じることが出来る。

四基並んだ五輪塔、向かって左から新田義貞、横瀬貞氏、由良国繁、由良忠繁の順に並んでいる。

金竜寺の伝説

藁干観音のお話

金竜寺に藁干観音がある。昔、新田義貞が敵に追われて逃げてきた。その時農家の娘が藁を干していた。見ると娘がしきりに義貞を招くので、これ幸いと娘の干している藁の中に身をひそめた。敵兵はそこに義貞が隠れているとは知らずに通りすぎてしまった。藁の中から首を出してそっとのぞくと娘の姿はすでになく、難を逃れた義貞は「これこそカブトの中に入れて置いた観音像の守護によるもの」として金龍寺にその像を納め、厚く祀った。以後その観音は藁干観音という名が付けられた。

金竜寺

牛になった小坊主のお話

金竜寺に知雲というのろまで気の利かない小坊主がおりました。住職の注意にも耳をかさず、食っては寢、食っては寢しているうちに、まるまる太って、とうとう牛になってしまいました。牛になった知雲は始めて自分のしたことを反省し、もう死ぬしかないと思い沼に入水しようとします。それをあわれに思った住職は、牛の尻尾を引っ張って引戻そうとしますが、ぷつんと切れてとうとう水底へ沈んでしまいました。住職は残った尻尾を持ち帰りねんごろに供養しました。その尻尾で払子をつくり、その払子は今でも寺宝として残ています。一方入水した沼はその後「牛を食った沼」として牛久沼と呼ばれるようになりました。

牛久沼

金竜寺秘話

いつの時代か定かでないが、身分ある武士の妻と思われる女性が幼い子を連れて、金龍寺にある銀杏の樹の下で落ちた実を拾っていた。拾った実を子供に食べさせていたが、その姿は痛々しいほどやつれていた。時は戦国時代のこと、こうしたこともあったであろう。家は焼かれ、田畑は荒れて食するものとてない有様であった。戦火から逃れて、この寺に難を避け、僅かな銀杏の実で一時の飢えを凌ごうとした悲しい母と子の姿である。

その後二十年が経ったある日のこと、同じこの樹の下に、とめどなく流れる涙を拭おうともせず、万感胸に迫る思いを抱いて立ちつくしている若武者がいた。この凛々しい若武者の姿を不審に思い、見守っていた住職は「さきほどからお姿を拝見していましたが、何やら仔細がおありの様子、差し障りなくばお聞かせ下さい」と声をかけた。若武者は我に返って「いや、これは失礼、今は戦いの最中、どこに敵の間者がいないとも限らず、身分を明かすことは出来ない」と挨拶して、幼いころの思い出を語ったが、この若武者こそ、二十年前に飢えに泣き母に手を曳かれ、銀杏の樹の下で落ちた実を拾って食べた子の成長した姿であった。