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若柴城跡

馴柴小学校より北進し、ニュータウンへ向かう大通りを横切ると、前方に小高い丘が横たわっているのが目に付く。

それは稲敷台地と言い、土浦や霞ヶ浦方面まで続いている広大な高台である。その台地の最南端に若柴宿があり、そして北竜台、女化原、牛久へと続いている。 稲敷台地には太古の昔から人が住み、人はそれぞれの歴史を創り、風土を形成し、数々の文化を残して現在に至っている。平成の今日でも古き時代の人々の息吹を感じることさえある。

若柴宿の成立以前の戦国時代には、若柴町字宿畑と言う所に、かつて戦国の山城(平山城)があったらしい。本丸は現在のふたば文化幼稚園裏手の竹藪付近と考えられる。本丸西隣には中城があり、さらにニュータウンへの大通りを挟んで八坂神社付近まで外城が広がっていたらしい。

遺構は住宅建築や道路建設の影響で城跡と判断出来るものは殆どないが、地元の年配者は、今でも八坂神社付近を外城(とじょう)と呼んでいる事や、僅かに残る郷土史資料の中から、若柴城の残影を知ることが出来る。

資料によると、若柴城は牛久城の支城で岡見越前守勝頼が住んでいたと記録されている。

勝頼は江戸崎の土岐治頼の次男で、のちに岡見氏の養子となり、足高城の城主となるが、家督を嫡子に譲ると、出家して伝喜と号して隠居し、若柴城にその身を置いた。

しかし、勝頼はその後も多賀谷氏との攻防では援軍を送るなどの活躍が記録されている。 その後、岡見氏の勢力は衰退し、勝頼も天正16年(1588)に多賀谷氏に諮られ横死したらしい。主を失った若柴城は廃城となり、城下の人たちは宿畑より西隣の丘に移り住み、若柴宿成立に影響を与えたと考えられる。