西地区top 米薬師堂 大統寺 般若院 高田神社 市民遺産竜ヶ崎線 三笠宮来龍碑と旧高松石蔵 撞舞通り 本願寺不動堂 頼政神社 並木道祖神 並木道 市街地西地区いろいろ

大統寺

由来

大統寺は山号を龍峰山(りゅうがみねさん)といい、釈迦如来(釈迦牟尼仏)を本尊とする曹洞宗の古刹です。もとは龍ケ崎城主土岐氏の菩提寺で、江戸時代になると、伊達家の菩提を弔う寺として、寺領がつけられていました。文久4年(1864)の調べでは24石余の保有地を持ち僧侶のほか弟子2名が居て、無住になった寺院を管理していました。かつて「花の横町」といわれ賑わいを見せていた横町はこの大統寺の門前として栄えた町です。

創建は天正13年(1585)、龍ケ崎城主・土岐胤倫は根町にあった臨済宗大運寺を現在地に移転させ、大聖院、天真院の二つの寺を合わせて大統寺としました。そして胤倫の叔父天岩梵宿(てんがんぼんしゅく)和尚(下総国香取郡土室村祥鳳院の住職)を招いて曹洞宗の寺院として開山しました。

寛文年間(1661-72)に本堂再建、文化年間(1804-17)に改修、山号を龍峰山(りゅうがみねさん)としました。改修を記念して本堂の前に竹柏(なぎ)を植えたそうです。竹柏はマキ科の常緑高木で温帯植物です。関東地方でこのように大木に成長したのは珍しいことで、市指定天然記念物となっています。

なお、二世の日山梵朔(にちざんぼんさく)は慶長3年(1598)砂町に医王院を開山し、大統寺の隠居寺としました。開基は土岐胤倫となっております。医王院は明治37年(1904)に独立した寺院になるまで大統寺住職が兼務しました。

境内

境内には不動堂、大師堂などがあります。そして境内の墓地には土岐胤倫や仙台藩家臣の墓があります。土岐胤倫は龍ケ崎落城後、不遇の身となり領内にしばらく居住し、慶長4年(1599)に死去します。法名は「大統寺殿統厳正公庵主」で、このことから大統寺という寺名は、胤倫の死後につけられたと考えることが出来ます。

また、俳人杉野翠兄の墓があり、法名は「狐峯軒徳府道隣居士」で、碑文によると、人となりは風流で俗を離れてあっさりしており、俳諧では滑稽でおもしろい佳い句をたくさん作ったとあります。

大統寺境内 土岐胤倫公の墓