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並木道

永禄11年(1568)に土岐胤倫は、龍ケ崎城の城主になりこの地を支配します。しかし、城下は度重なる鬼怒川(現小貝川)の氾濫で湿地帯が多く、人が暮らすには不向きな土地でした。

胤倫はこの湿地帯を開拓し、町づくりを行うために、城下の南側に堤防を築きました。堤防は馴馬村、龍ケ崎村、大徳村、宮渕村、生板村(現河内町)までの広範囲に及び、これにより頻度の水没はなくなりました。こうした開拓事業により城下は平坦で町づくりに好条件の土地に生まれ変わりました。そして胤倫は大統寺の創建や八坂神社の遷座、道の整備等、この地の町づくりを精力的に行いました。それが現在の龍ケ崎中心市街地の原型となっています。

江戸時代になると、堤防に赤松と黒松が植えられ、やがて松の巨樹が連なる並木道となりました。いつ頃松が植えられたかに付いては諸説ありますが、寛永12年(1635)龍ケ崎奉行今村惣兵衛が諸岡長門村長に出した文書の中に「水門より馴馬堤境までの堤、同じく本願寺に植えた杉の次より大徳境までの堤に、松と杉を手抜かりなく植えること」という文書(師岡文夫氏所蔵)があり、これにより江戸時代に馴馬から大徳町境界線まで松が植林されたと考えます。

この並木道は大正~昭和期、絵葉書や観光案内などに紹介され、龍ケ崎の名所として、人々に親しまれてきました。こうした経緯から、昭和49年(1974)に、市の木に松が制定されました。また♪若い二人の恋あかり並木の松でチョイト消した♪と、龍ケ崎錦でも唄われております。

なお、並木道の恩恵は近年まで続きます。昭和10年代に2回の小貝川の決壊で、市街地を洪水から守ったのはこの並木道だといわれています。 現在は小貝川の堤防が堅剛になり水害の心配も少なくなり、道の両側には住宅が広がり、生活道路となり、本来の防災の役割は低くなりました。また、松並木は松くい虫や環境の変化によってほぼ全滅し、往時の面影は殆ど残っておりません。